岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

岐阜新聞真学塾 短期大学部② 安部日珠沙

善悪こぼれ話

岐阜聖徳学園大学短期大学部専任講師 安部日珠沙 

 世の中には、よいことと、悪いことがあるとされています。そして私達は、家庭でも学校でも、悪いことをしてはいけません、と教えられます。もちろん、それが間違っているということはなくて、むしろ正しいことだと思います。けれども、悪いこととは何か、少しかしこまって言えば、悪とは何か、ということを詳しく教わる機会は滅多にありません。もしかしたら私達は、親や先生に言われたから、悪いことをしないようにしているだけで、悪いことが何なのかを知らないまま、もしくは、よく考えようともしないまま、ただ漠然と悪を感じているだけではないでしょうか。

 とは言え、悪とは何か、という問いに答えることは、決して容易ではありません。実際、悪に関する議論は数千年にわたり続いていますが、未だにはっきりとした答えは出ていないのです。「善の反対が悪なんじゃないの?」と思うかもしれませんが、実は、それ自体が大きな過ちともされています。善ではないものを悪とする場合、私達は善をもとに、○○は善である、××は悪である、と言っていることになります。しかしそれは、善をもとにして、悪を作り出すということではないでしょうか。例えば「人助けをすることはよいことだ」と言ったとしましょう。その瞬間に「人助けをしないことは悪いことだ」という反対の事実が成り立ちます。これは、よいことを口にすることによって、悪いことも生じえるということに他なりません。つまり、善が存在するから悪も存在できる、という意味において、善は悪の反対ではなく、元凶になってしまっているのです。

 このように考えてみると、悪いことをしてはいけません、という教訓自体、ある種の矛盾をはらんでいると言えます。世の中をよくするためには、悪いことをしないのと同時に、悪いところをよくしていく必要があります。そして、全ての悪いところをよくすることができれば、私達はそれ以上よいことをする必要がなくなります。なんとなれば、改善するべき悪がもうどこにもないからなのですが、逆説的には、悪があったから善ができた、という奇妙な事実の証明になってしまっているのです。

 なぜこんな矛盾が起こるのかと言えば、私達が悪というものを正しく理解していないからではないでしょうか。だからこそ、悪とは何か、という議論は今も続いており、私達もきちんと自分で考えることが重要になるのですが、さて、皆さんはこの問題にどう答えますか?(2022年2月20日岐阜新聞掲載)