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第6号 平成19年9月発行

「「お盆」について」

河智 義邦

少し時期を戻しますが、この夏は猛暑・酷暑が続き、お盆(7月の地域もあります)の期間もひときわ暑い日が各地で続きました。この期間は古より亡き人(特 に先祖)を偲ぶのが日本人の生活習慣となり、お墓参りに出かけた人も多いと思います。ご存じの方も多いとは思いますが、「お盆」の由来などを掘り下げて整 理して、少し私(真宗僧侶)なりに、その習慣について、あえて物申してみたいと思います。

「お盆」は、正確には「盂蘭盆会」といいます。これはインドのサンスクリット語のウラバンナと発音する語を漢字に音写して「盂蘭盆会」と表記したものに 由来します。ウラバンナは「逆さ吊り」という意味です。そして、この盂蘭盆会について説かれた経典が「仏説盂蘭盆経」です。そこには釈尊の弟子の目連尊者 が、自分の亡き母親が餓鬼道に落ちて苦しんでいるのを知り、どうしたら母親を救えるのか釈尊に相談をする話が登場します。そこで釈尊は、出家者(僧侶)の 夏の修行期間(安居)が終わった旧暦7月15日に供物を捧げて供養することを勧めました。そして目連がそのようにしたところ、母親が餓鬼道から救われ生天 したと説かれています。これがお盆の原点の話です。このことからお盆は、「逆さまに釣り下げられるような苦しみに遭っている人(先祖)を救う法要」といっ た意味で営まれるようになりました。施餓鬼とも言われています。

しかし、このウラバンナと呼ばれ「先祖の霊を供養・慰める」といった意味で営まれる行事は、本来インドのも仏教には見受けられません。『盂蘭盆経 』だけでなく『父母恩重経』など、親孝行を説く経典は、儒教の孝の精神を反映して中国で成立した偽経(偽物の経典)であると考えられています。インドでは 安居の終った日に人々が修行僧に飲食などの供養をした行事はありますが、祖先の霊などは関係していません。その行事習慣を中国では、儒教の孝の倫理に基づ いて、祖先の霊を供養することを勧めるために、目連尊者の亡母の救いのための修行僧に対する供養という伝説を付加して「盂蘭盆経」として創作されたまし た。中国の習俗では7月15日 (旧暦)を中元といって、先祖に供物を供え、灯籠に点火して祖先を祭る風習があったことにも関連していて、盂蘭盆の行事が仏教者の中でいよいよ盛んになっ ていったといわれています。

このような儒教的孝の倫理を中身として仏教的装いをまとった習慣が日本に入ってきました。しかし、日本のお盆には日本独自の宗教観が付加されます。民俗 学などの見地によると、日本人の土着の宗教観・死者観では、「あの世」に行った亡き先祖の霊は年に二回故郷に帰ってきて、生活に疲れてエネルギーが枯れた (ケガレ・気枯れ)子孫に新たなパワーを与えるとされています。お正月とお盆の時期です。そこで、お正月やお盆の時期は家族や親族が集まって先祖のパワー をもらうというのです。これには日本古来の農耕儀礼や祖霊祭祀などの宗教観が関わっています。特にお盆の時期は、中国伝来の仏教習俗と関連して、先祖の霊 を迎えて仏教的儀礼によって慰霊・供養するという行事が定着していったと考えられています。お盆の迎え火、送り火はその霊を迎え送るためのものです。

しかし、このようなことを言うとヤボかもしれませんが、不思議な行事に思えてなりません。まず、もともと仏教では霊魂の存在を説いていません。むしろそ の存在に否定的です。仮にその存在を肯定して、中国的な習慣に重心をおいて考えてみると、亡き人は餓鬼道という苦しみに満ちた世界に生まれていることを前 提にして供養されるのです。それは、亡くなった人に対して失礼なような気がします。また、日本的な宗教観に重心をおいて考えてみると、故郷に帰ってくる先 祖の霊を慰めるといっても、その先祖の霊は普段はどこにおられるのでしょうか?国民の多数は、葬儀をして、そのあと49日目に満中陰法要を営んでいます が、その仏教的是非はともかく、少なくともそれは人の霊魂は死後50日目に違う生き物に生まれ変わったことを記念する法要という考え方に基づくものです。 ということは、亡き人は、すでに他の存在になっていて、フラッと寅さんのように半年に一回故郷に帰ってくるというのは整合性がないと思います。

亡き人に対する偲び方は何通りあってもいいと思います。そこに論理的な整合性など関係無いと言われれば、そうかもしれません。こうしたごちゃ混ぜの中に 日本的宗教観の特色を見る人もおられると思います。しかし、流行してる歌では死者は「千の風に」なってると言われています。浄土真宗では、こうした意味で 盆法要(や満中陰法要)をしませんが、それにしても、餓鬼道にいたり、あの世にいたり、風になったり、生者の都合でいろんな存在にされる亡き人の霊も忙し いことだと思います(^^;)仏教的な亡き人の偲び方を考えさせられた夏になりました。