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第22号 平成21年10月発行

「生きてるだけで丸儲け?」

河智 義邦

「その昔の話ですが」と言っても、いつぐらい?って聞かれるかも知れないので、ちゃんと申すべきとは存じますが、重ねた歳(ちなみに惑いっぱなしの四十で す)のせいで、漠然としか思い出せず、深夜に受験勉強をしていた高校時代か、故郷(島根)を離れて暮らし始めた京都の一室か、あるいは大学在学中に、早世 した父親代わりに私を育て念仏門にまで導いてくれた祖父が往生したときか、長くなってしまいましたが、とにかく、自分なりに人生についてアレコレ(ネガ ティブに)考えていた頃に話がさかのぼります。  
深夜ラジオを聞いていたときに、冒頭の言葉を語っていた人物がいました。これは記憶に定かなのですが、明石家さんまさんです。文章だと微妙なニュアンス が伝わらず残念なのですが、彼の口から出た関西弁で語られたソノ言葉は、幼少期を関西で過ごした当時の私にとって、大変心に響くものでありました。日頃、 損得を超えた考え方、ものの見方を強調している仏教学者が、そんな言葉に心を奪われていたとはけしからんではないか。そんなお叱りをいただくことも想定し つつ、あえてこの言葉をタイトルにしました。  
それは、一見、品なく見えるこの言葉には、いのちの大切な意味が含まれているからと思ったからです。初めてこの言葉を聞いたときの私は、深い仏教的教養 もなく、ある意味、素直に聞いたのだと思います。きっとその時は、「そうだよなぁ。つらいこと苦しいこと、生きてるといっぱいあるけど、いのちがあるから こそだよな。死ぬことが一番イヤなことなんだから、それと比べると、生きてるだけで得だよな」、そんな受け止め方をしていました。今から考えると、それは 表層的な理解だと思いますが、でもなぜか、この言葉を聞くたび、あるいは自分でつぶやくたびに、不思議と元気が出て、人生に前向きに臨んでいく原動力に なったことも事実です。  
仏教を自分なりに深く学んだ(つもりになった)今も、基本的には、この言葉を座右の銘の一つにしていることに変わりありませんが、味わい方が大きく変わ りました。まず、死について、それは人生の一番損な出来事、人生の敗北状態、そんな捉え方から、そもそも生老病死は苦である、つまり自分の都合で思うよう にならない自然(生理的)現象であって、これと対峙したり喧嘩しようとすることが間違いであると気づかされました。そう受け入れると、人生いろんなこと (苦しいこと、つらいことの方が多いのでやっかいです)があって普通であると、良い意味で開き直ることができるようになりました。  
そして、もう少し仏教的にこれを深めていきますと、(また)そもそも、私たちの「いのち」は「私」という自覚に先立って存在しています。と言うことは、 「私」より「いのち」が先なんですね。いのちは無量無数のご縁が集まって形作られ、その上に私という自覚が生まれたというのが、いのちの実相です。そのい のちはご縁によって生まれたものですから、ご縁によって死んでいくいのちなんです。「いただいたいのち」「預かっているいのち」と表現する方もおられま す。ですから、おりおりにできる限りのメンテナンスは預かった責任で私がせねばなりません。それをしても、やがて、いつかはわかりませんが、間に合わなく なるときは必ずやって来ます。それはきっと、私の意思を超えて(無関係に)やってくるのです。(またまた)そもそも、私の意思と関係無く形成されたいのち ですから、終わり(縁滅)もそうなのでしょう。  
今後、いのちのご縁がつきるまでに、いろんな逆境(苦)に出遇っても、この言葉に励まされていくことと思います。そんないのちの原点(「そもそも」)に 帰らせてくれるのが、この言葉の素晴らしさだと思います。これって仏教的センスにあふれた言葉そのものだと感じ入っています。