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第34号 平成24年4月・5月発行

頑なな心

河智義邦

  「どじょう総理」の登場を待つまでもなく、以前から大変よく知られていた詩人・相田みつをさんに『セトモノ』という題の詩があります。
  セトモノと セトモノと
  ぶつかりっこすると すぐこわれちゃう
  どっちか やわらかければ だいじょうぶ
  やわらかいこころを もちましょう
  そういうわたしは いつもセトモノ
 仏教者としてもよく知られた相田さんですが、このセトモノというのは、仏教で言うところの「凡夫」のことを指すものといえます。本学園の校名とゆかりの深い聖徳太子は、
  忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違(たが)うを怒らざ  れ。人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非  とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあ  らず。共にこれ凡夫 (ぼんぶ)のみ (十七条憲法 第十条)
と仰っています。人は皆、誰もがこだわりの心(執着心)を持っていて、その心を持つがゆえに、自分の思い通りにならないことや気に入らないことに対しては怒り、偏ったものの見方をしてしまう可能性を持った存在、「凡夫」であると定められています。太子は物事を決める場において、相手の言い分に耳を貸さず、自分の意見のみを正しいと思いこんでいないか、怒りの感情に支配されて正常な判断ができていなのではないか、など凡夫であることの自覚を通して話し合いに臨むべきであると諭されているのです。
 人間がこの「頑なな心」を持った凡夫であることは、加齢と共に、肉体的な衰退と共に自然に改善されていくのかと言えば、そうでもないようです。親鸞聖人は、
  「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだ  ち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、  きえず、たえずと (『一念多念証文』)
と述べて、死の瞬間まで消えないものと述懐されています。また、江戸期の禅僧・仙崖和尚は、かの『老人六歌仙』の中で、「心は曲がる 欲深くなる」「くどくなる 気短くなる 愚痴になる」など、年を重ねていくほどに凡夫性が増していくとも取れるような表現で老境を語っておられます。
 何百年も先に仏法と共に人生を歩んでくださった先輩方の言葉には大変な重みがあります。みつをさんも含め、仏教のみ教えとの出遇いの中に、仏法を鏡とし、自らがそれに照らし出され気づかされた、自身の実相を言い当てておられます。
 そのように仏法と関わり合いが深まらない人であっても、こうした言葉に学ぶことはとても大切なことと思います。それは、老若問わず、みつをさんが詠まれているように「そういうわたしは いつもセトモノ」という心を忘れないことではないでしょうか。
 人は日頃の人間関係でぶつかり合い感情が乱れると、ついついその原因を自分以外に求めようとしてしまいます。瞋恚(自分のものさしに合わない、気に入らないことを排除しようとする)の心が働くのでしょうね。私もその凡夫の一員として何ら偉そうなことを言えたものではないのですが・・・。そのように、少しは自分を省みる事ができるようになったのかも知れません。これこそ、仏教から賜る素晴らしい、真の現世利益かと思います。