第39号 平成25年8・9月発行
念とはなんでしょうか?
城福雅伸
今回は念のお話です。念は仏教では重要な概念です。本学で宗教学を履修した人は、八正道で正念と出てきたのを覚えていらっしゃるでしょうか?
え、忘れた?(^^;)
う~む。
それは「念がない」とか「念の働きが弱かった」…ということになります。
念というのは心の働きの一つで、仏教の哲学書には「経験したことを心に明記して忘れないようにする心の働きです。また禅定のより所にもなります」と説明されています。
ものごとを忘れるということは、しっかり念を働かさなかったか、働かなかったんですね。
別にみなさんを責めているわけじゃありませんよ。私だって、この間、ある方から「次に仏教文化研究所の法話を書くのはあなたではないか?」とお電話がありまして。「あっ」…それまで忘れてたんですよね。
もう少し、念をつっこんで説明しましょう。
上の哲学書の説明の「経験したこと」は大きく二つに分けられます。一つ目は、直接、経験したもの。例えば直接見たり、聞いたり、味わったりしたものです。これはわかりやすいですよね。
二つ目は直接経験してはいないが名前で知っているもの、あるいは直接経験したことをもとに後で思いだすものなどです。これも直接経験したことに準じる効果、あるいは直接経験したものと心につながりをもたせる効果があるというのです。
このうち「直接経験してはいないが名前で知っているもの」というのは、仏教で言えば仏とか真理とか、涅槃(覚えてますか(^^;)?)、悟りとかそういったものです。これらは直接経験はしていないですよね。していればもう悟って仏になっているはず。経験はしていませんが、しかし名前では知っているものです。
「直接経験したことをもとに後で思いだすもの」というのは、思いだし笑いの場合の、思い出した過去のおかしかったことがこれにあたります。
これらが私たちに重要なことを教えてくれます。
私たちは、仏や真理は経験していません。またすばらしいこと、崇高なことも経験している人は少ないでしょう。優れた生き方をしたり英雄の話を聞いても私たちはその英雄ではありません。
しかしその名前や説明を聞くことによって、私たちの心と、仏や真理、すばらしいこと、崇高なことと、優れた生き方をしたり、英雄の生き方につながりが持てるということなのです。
ですから仏や菩薩などの名前を聞き心に明記すること自体が非常によい、優れたことなのです。いつも仏菩薩の名前を心に想っているというのは非常に優れたことということになります。
また仏教などの教えを聞くことも大切であり、英雄や優れた生涯を送った人の話、優れた話を聞くこともまたそれらと心につながりが出来る優れたことなのです。むろん仏教の教えや優れた人の話のみならず、みなさんが本学でいろいろな講義を聞いて学ぶ重要性もここにあります。いずれの分野も大学の講義ですから難しく、今は理解できない面が仮にあったとしても、いっしょうけんめい聴き学ぶということは、講義のいわんとしている内容と心でつながれる、ということになります。
そして、後でそれらを思い出すことができ、自分を生かしてくれる機縁となることも少なくありません。
仕事につき、年齢が進み、四十歳や五十歳になって、あることが起こった時、それを見て「あ、そういうことだったのか、講義で先生が言われていたのはこのことだったのか」などとわかることがあるのはこの念の働きです。それが本当の学びでしょう。
何十年も前に聞いていたことが、その時、自分の実際の経験としてしっかり心に明記されることとなるのです。
ですから念の哲学から言えば、若いうちによいことを多く経験し、よく学んでいただくとその効果は今はすぐに目に見えませんが、やがてそれが人生の上に稔りをもたらすことにもなるということになります。
以上は良い面、善の面で念を述べました。
一方、念は、悪いことにも働きます(念は善と悪、そして善悪いずれでもないことにも働きます)。それはすでに述べました良いこととはまったく逆の悪い効果をもたらします。
悪いことの名前、例えば盗んでやるとか、殴ってやるなどということを言葉で書いたり言ったりしていると、それも念によって心に明記されるということになります。それらは実際には未経験ですが、言葉や名前によって経験したことに準じることになり心が悪いこととつながりを持ち増幅されて行くのです。
インターネットの掲示板などに憎悪や他者への悪口、悪い言葉、嘘などを書き連ねるなどし心に明記していけば、念によってそれは実際にしたのと同じような経験として自分の心は受け取って行くという恐ろしいことになるのです。「殴ってやる」と書けば実際には殴っていませんが、実際に殴ったことに準じる経験を心に入れてしまっているのです。
さらに、思いだし笑いの逆のケースも重大です。過去に怨みを思ったことや憎悪を捨てず、それを繰り返し述べるなどし心に明記して行くと、現在経験したのと準じることになって行き、憎悪を激しく増幅させて止まらないことになりかねません。
たとえ自分の経験していない憎悪や怨みでも、他人から憎悪や怨みを教え込まれれば、自分が経験したことに準じて心に明記され増幅させて行きます。
恐ろしいのはそういった憎悪や怨みの念は、それらをたとえ自分が経験していないものであっても、瞋という殺人や忿という暴力を振るう心の働きと活動するということです。
どういうことかといえば、過去の怨みを想い出し、今その怨みを受けたのと同じ感覚になりついに相手を殴るということも実際に起こり得るのです。
さらには自分は経験していない憎悪や怨みでも、それを教え込まれるならば、自分の経験した憎悪、怨みに準じる効果をもたらし、やがて相手に対し実際に暴力を振るったり相手を殺すことにもつながりかねないのです。ですから憎悪や怨みを他者に教え込むということは非常な悪であるということがわかります。
以上の念の哲学から、現代において様々な問題の起こる原因の一つを考えれば、教えられ心に明記されるべき、よい教えや倫理、善、優れた生き方などが教えられず、本来戒められるべき怨みや憎悪をむしろ維持、増幅することがなされていることにありましょう。
ですから、私たちはなるべく憎悪や怨みを持たず、たとえあっても捨て、またそのようなことを話さず書かず、むしろどんどんとよい教え、よいことを見聞したりするようにしたいものです。
みなさんも講義を学び、またどんどんとよい話を見聞して行っていただければと思います。
そしてこれから未来を担う子供たちやみなさんのお子さんたちには、悪い話、憎悪の言葉を聞かせず話さず、よい教えや話、希望に満ちた話、優れた話、英雄譚などをやさしく聞かせていただければいいなあって思っています。
念の哲学から言えば、それがそのお子さん自身の未来とすべての人間の未来とを優れたものにして行くことになるのです。
これが念の教えです。