報恩講がありました
本日5限に、三大宗教行事のひとつである報恩講がありました。
今回は、浄土真宗本願寺派布教使・圓勝寺ご住職でいらっしゃる橘行信先生をお招きして、「信じるということ」と題したご法話をいただきました。
スポーツ競技などにおいて、選手に対して「勝つと信じています」と口にする応援者の言葉。もし試合に負けたら、彼らは選手たちに対して、どのようなことを口にして、どのような行動をとるのでしょうか。
この「信じる」という言葉は、選手を信じているのではなく、勝つということだけを信じているにすぎません。勝つ、負けるという不確かな可能性に対し、自分が気分がいい方を「信じる」と言っているだけなのではないでしょうか。そして、その不確かなものに対して「信じる」という「こうなってほしい」という欲望のこもった思いが、いつのまにか「こうなるはずだ」という考えにすり替わり、やがて、負けたときに選手を責めるという身勝手につながっていくのです。
そもそも、不確かなものではなく結果がはっきりしていることに対して「信じる」必要はありません。不確かであるからこそ「信じる」という言葉が存在しているということです。もしかしたら、信じていないからこそ「信じている」という思いが生じるのかもしれません。もし、本当に信じているなら、わざわざ「信じている」という言葉を口にすることはないのではないでしょうか。
人間どうしでもこのような身勝手が起こるわけですから、仏さまに対してはもっと自分勝手なことを思っているのかもしれません。仏さまを信じて手を合わせ、さまざまなお願い事をすることはありますが、それらのお願い事は仏さまにとっても不確かなことなのですから、どうすることもできないのです。「志望校に合格させてください」はいつか「志望校に合格できるはずだ」にすり替わり、合格できなかったら「仏さまにあんなにお願いしたのに」と勝手なことを口にするようになってしまいます。
浄土真宗は、何かや誰かを信じることは大変難しいということを知っています。信じるということには、自分の身勝手がついて回ることを理解しているのです。
浄土真宗の「信じる」とは、受け入れるということです。仏さまが私のそばにいてくださり、いつでも見守ってくださっているということを受け入れるということが「仏さまを信じる」ということなのです。また、今の自分は、多くの方々に選ばれ、支えられることによって存在しています。私たちを受け入れてくださる方々の存在、そのことを受け入れることが「信じる」ということです。「信じる」ということは、このことを受け入れたことで得られる安心と喜びのことなのです。
ご法話のあと、本日のお話を心の中でそれぞれ振り返りながら写経を行いました。