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第16号 平成20年10・11月発行

「何が善で、何が悪なのか?」

蜷川祥美

食品偽装のニュースが巷をにぎわせています。少々健康に害があっても、会社の利益のためには目をつぶるといったことなのでしょうか。人体に害を及ぼすものでも、安い材料を使った食品を売り、利益を得ることができたなら、社員やその家族のためには善いことなのかもしれません。しかし、危険な食品を口にした大勢の消費者にっては、悪いことに違いありません。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の言葉に、「何が善であり何が悪であるのか、そのどちらもわたしはまったく知らない。なぜなら、如来がそのおこころで善とお思いになるほどに善を知り尽くしたのであれば、善を知ったといえるであろうし、また如来が悪とお思いになるほどに悪を知り尽くしたのであれば、悪を知ったといえるからである。しかしながら、わたしどもはあらゆる煩悩をそなえた凡夫であり、この世は燃えさかる家のようにたちまちに移り代わる世界であって、すべてはむなしくいつわりで、真実といえるものは何一つない。その中にあって、ただ念仏だけが真実なのである」(浄土真宗聖典『歎異抄(現代語版)』より引用)とあります。
仏教で善といえば、仏(如来)の真実のこころの性質であり、あらゆるものを救うことのできる永遠に変わらぬ価値観のことでもあります。それに対して 悪(不善)といえば、迷いのもののいつわりのこころの性質であり、あらゆるものを救うことのできず、ころころと変化し続ける価値観のことでもあります。
親鸞聖人は、20年間にもわたる比叡山での修行で、善を行い、自身のこころを真実にしようと努められました。しかし、修行を重ねれば重ねるほど、悪しか行えず、自身のこころはいつわりであると絶望されたそうです。
私たちには、善悪を見通す力はありませんし、変化きわまりない世の中に住み、いつ命が尽きてしまうかもしれない状況に置かれながら、ころころ変化し続ける自分中心の価値観にとらわれて苦しみを受けています。しかし、そのように悪しかできない私たちに、あらゆるものを救うことのできる永遠の真実である阿弥陀仏のこころは、常に示され続けていたのです。
念仏とは、南無阿弥陀仏のことですが、阿弥陀仏の呼びかけに応じて、仏の変わらない真実のこころを疑いなく信じさせていただくという意味をもっています。
聖人も、念仏の教えに出遇われて、悪しかできず、いつわりだらけの自身のこころに気づかれ、恥じるこころをもたれたと同時に、そのような愚かな私に、仏と成るための真実の道を示し、お救いくださる阿弥陀仏の善のこころに包まれていることに気づかれて希望をもって生き抜かれたのです。
自分中心の価値観にとらわれがちで、あらゆるもののための行いなど、なかなか実現できない私たちですが、生活のどんな場面でも、常に示され続けている阿弥陀仏の真実のこころ、すなわち念仏の教えに照らして、自身のこころのありようや行いを見つめ直していくことはできるはずです。
自分自身の行いは、身内や自分のためだけではないのだろうか、もしくは、本当に他者のために役立つおこないなのだろうか、常に問い続けるこころをもつことこそ、真実に生きようとする人間にとって必要不可欠なものではないでしょうか。