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第26号 平成22年6月発行

「諦めることは大事?」

河智 義邦

先日、京都駅近くの東本願寺(真宗本廟)前に並ぶいくつかの伝道掲示板の中に、「自己がわからない人は他人を責める。自己がわかった人は他人を痛む」と書かれた安田理深(やすだりじん)先生の言葉がありました。この言葉はもちろん親鸞聖人の念仏思想の教えに生きた中から吐露されたものに他なりません。では、自己がわかるとはどういった意味なのでしょうか。それはごまかすことなく、本当の自己、いわば自己の本性というものに深く気づいている状態のことと言えます。これは仏教が最も大切にしている諦観(たいかん)の世界に通じるものです。まず、その諦観について述べておきます。

諦観する、つまり物事を諦めて観るなんていうと、多くの方は、悲観的なものの見方のようにお感じになられるのではないでしょうか。私たちの日常生活の中で、一般的には「諦める」という言葉を使うときは、自分がしようとしていたこと、願いを叶えようとして頑張っていた気持ちを、断ち切ったり捨てさるといった場面で使っています。そして、そのことを大事なことだなんて思っている人も少ないではないかと思います。しかしながら、この言葉の本当の意味を知ると、きっと諦めることは大事なことだなって思ってもらえるのではないかと思います。
「諦」というのは「サッティヤ」など、「真実」を意味するサンスクリット語からの漢訳語です。したがって、仏教では「諦める」は「あきらかにみる」「明らかに真実を観る」ということになります。それはつまりは、もののありようを、何の偏見や前提や思いこみなどを交えず、ありのままに見る・知るということです。これは、どんな社会の中でも通じて大切なことだろうと思います。まず、今の状況をありのままに見極め、受け入れるところから、その先への一歩が踏み出せて行けるのではないでしょうか。

親鸞聖人は、全ての生きとし生きる物を救わずにはおかないという阿弥陀仏の本願(願い)の心に出遇う中で、慈悲の心をもって他者に接し、生きていくことの大切さを学ばれました。しかしながら、それはまずもって、本当の自己のありようをごまかすことなく見つめることをも意味していたのです。85才の時に書かれた法語集には、「凡夫というは、無明煩悩、我らが身にに充ちみて、欲も多く、忿り、腹立ち、そねみ、嫉むこころ多く、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、消えず、絶えずと」と述べられ、さらに、86歳の時に書かれたと見られる仏教讚嘆歌謡集には「浄土真宗に帰すれども、真実の心はありがたし、虚仮不実のわが身にて、清浄の心もさらになし」と、その時々の心境を語っておられます。要は、(何才になっても)「今」の自分には真実で清らかな心は全くなく、欲望が満ち溢れ、嘘偽りにまみれた身であると語っているのです。聖人は、常に今、そうした本当の自己のすがたに目覚め気づかされ人生を生き抜いて行かれました。人によっては、なんだ親鸞という人は何とも自虐的でニヒリストで、暗い人だったんだなと思われるかも知れません。しかしながら、世間的に倫理的道徳的な健全な生活をしていると思ったり、人からそう思われている人であったとしても、きっと今の聖人の言葉に同感される人は多いのではないかと思います。
聖人が、欲望のままに快楽を追求し、自堕落で倫理のない生活をしたというような事実はありませんでした。むしろ、弥陀の本願に出遇ってからの聖人の人生は、門弟などに対する手紙などを見ても、非常に利他的な精神による生活をされていたことが伺えます。それは、「自己の弱さ、愚かさ」が分かるからこそ、他者のいのちに対するまなざしも、自ずから温かなものへとなっていたのではないかと思います。

人間は他者を批判することを習性的に行う動物なのかも知れません。他者を批判すると言うことは、自分の中に正しいと思うものを持って批判するのでしょうが、その正しさは本当に正しいのかどうか、自問する人は少ないのではないでしょうか。批判が批判を呼び、恨みが恨みを呼ぶとも聞きます。自分のことはさておき、他人のことを感情的に批判したり、思いやりの心に欠ける人を見ることは少なくありません。これを書いている私自身も偉そうには言えませんが・・・。
常に明らかに本当の自己を観る、あるいは観させてくれる教えを持つことは大変有意義なことだと思いますし、ここにこそ宗教の存在意義があると思います。本当の自己を知ると言うことはシンドイことに違いありません。また、本当の仏教の世界と出遇うと言うこともなかなか難しいことです。仏像にお願い事を叶えてもらおうとする行為とは真反対の世界と言えます・・・。どうか(一般用語として)諦めずに仏縁を大事にしてください。