• 受験生の方へ
  • 在学生の方へ
  • 卒業生の方へ
  • 企業・教育関係の方へ
  • 地域の方へ
  • 教育学部
  • 外国語学部
  • 経済情報学部
  • 看護学部
  • 大学院
  • 短期大学部
  • 大学概要
  • 学生生活
  • 就職資格
  • 図書館・研究機関

第37号 平成25年4月発行

チャンスはピンチの顔してやって来る

譲 西賢

私は数年前から、近くの内科医に定期的に通院しています。もう7・8年前になるでしょうか。大学の定期健診の血液検査の結果から、「内科に受診してください」と指示が出たことがありました。その時は、特にたいしたことはないだろうと放っておりましたが、毎年同じ結果が続きましたから、数年前に内科医をやっと受診しました。当然のことながら、そこでも血液検査を受け、その結果を尋ねたときのことを今でも覚えています。検査結果を尋ねるのに「先生、どこか悪いところがありますか」と私は尋ねたことをはっきり覚えています。「自分はたいした病気はなく、健康だ」と思っていましたから、「悪いところがありますか」と尋ねた訳です。

その後数年の間に、私は、「高血圧」「高血糖」「高コレステロール」の3拍子揃った100%メタボリック症候群の診断を何度も受け、今では、内科医で血液検査を受ける度に「先生、どこか良いところはありますか」と尋ねるようになりました。血液検査の結果は、数年前と今とでは、わずかながら今の方がいいと思います。でも、今は、「自分はメタボリック症候群で、食べ過ぎてしまうから危ないぞ」と自覚していますから、「先生、どこか良いところはありますか」と尋ねるようになりました。

 自分では全く気がつけなかったことですが、血液検査の結果が私に「健康ではないかも知れない」という問いを何度もくれたことによって、メタボリック症候群と気づき、それを受け入れて生活するようになった私です。「私に何か間違っているところがありますか」とか、「何か問題がありますか」のことばを口にして、常に私は、「自分は間違っていない」「私は健康だ」「私は正しい」の立場で生きているような気がします。ですから如来さまは、私を「凡夫」といわれるのです。親鸞聖人はご自身を「邪見憍慢」と自覚されました。最近、私は、自分の思い上がりと憍慢さに気づかせてもらうために、メタボリック症候群をいただいたのかも知れないと思っています。いや、メタボリック症候群になって苦労しなければ、この思い上がりと憍慢さに気づくことができなかったのだと感じています。

 また、今年になって、高校の名門運動部の選手やオリンピック女子柔道強化選手への体罰問題で世間が騒がしくなりました。大阪市立高校の名門バスケット部の選手が、監督からの体罰を苦にして自殺し、高校駅伝の名門校の愛知県の工業高校の陸上部でも監督の体罰が発覚したりして、ほとんどのスポーツ種目において、指導者の体罰があるのではないかとの憶測もとびかいました。 

マスメディアは、「勝利至上主義」によって体罰まで用いていうことを聞かせたのだから「勝利至上主義」がいけないとか、いい成績を残さないと自分が不利になるから、自分の為に体罰を用いたとかいろいろ書きたてました。実態は闇の中ですが、多くの指導者を体罰に陥らせたのは、一体誰なのでしょうか。

体罰発覚以来、マスメディアは、体罰のあった高校や柔道連盟そして体罰を用いた監督・指導者を攻撃の矢面に立たせましたが、体罰に関わった彼らだけが悪いのでしょうか。昨年のロンドンオリンピックで、毎日メダルの数を数えて、メダル獲得の圧力を監督や選手に与えたのはマスメディアではなかったでしょうか。テレビを見て応援した私たちも「勝て、勝て」と応援したのではないでしょうか。「体罰をしてでも勝たせなければ」と追い込んだ私たちに、体罰の当事者を責める資格はありません。自分の勝利に執着し、それを生き甲斐にして生きる私たちの本性を「罪悪(ざいあく)生死(しょうじ)凡夫(ぼんぶ)」と教えられます。これが私たちであり、体罰さえもしかねないほど、勝つことと栄光への執着をもっている私であることを日本中が、今、教えられているのです。スポーツをすることの意義を、勝って栄光を得ることや世界のトップアスリートになることによって量ろうとする私たちの危なさに、気づかせていただくことが、いのちを自ら絶って逝った若者に報いることではないでしょうか。

「邪見憍慢」で「罪悪生死の凡夫」である私たちは、勝つことへの執着を消すことはできませんから、「自分の思いにおぼれると間違うぞ」と、いつも気づかせる(はたら)きをいただいているのです。この用きを如来といいます。毎日の生活のなかで、いつも私たちは、失敗しては自分自身の心や生き方の自己中心性に気づかせてもらっているのです。気づけるかどうかは、私たち自身にかかっています。失敗するたびに自己嫌悪するのが私たちですが、失敗したときこそがチャンスなのです。私たちの人生では、チャンスはチャンスの顔してやって来ません。失敗や落ち込んだり自己嫌悪したり、ピンチの顔してやってくるのです。それが如来という用きです。ですから、失敗や間違いや罪を犯しても、隠したり嘘をつかなくても大丈夫ですよと教えられるのが仏教です。その時こそ、自分の心を自覚しステップアップするチャンスなのです。