岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

法話 第44号 平成28年4月・5月発行

心をいただく

河智 義邦

 結婚式の祝賀スピーチの言葉の中でよく聞く定番フレーズの一つに、「一心同体」といったものがあります。この言葉の出典は存じ上げないのですが、あくまでも理想の夫婦のあり方を喩えて言ったものであろうことは分かります。でも、同じことを伝えようとするならば、私は次の善導大師のお言葉の方が、現実感があるように思います。
 大師は中国の唐の時代に活躍された僧で、親鸞聖人が、尊敬されたインド・中国・日本の7人の高僧(七高僧)の第五祖にあたる方です。主著である『観経四帖疏』に


  宿縁業重くして、久しく近づきて夫妻なり。体は別なれども心は同じ


という一節があります。宿世の縁の働きとは実に重いものである。おそらく幾世をかけて互いに近づき、いま夫となり妻となったのである。だからこそ、夫婦とは体は別であっても 、心を同じくする存在なのであります。これは、どのようにいただけばよい言葉なのか考えてみたことがあります。
 「別体」とは、肉体、ボディが別であるということとともに、生きてきた生活の様態、生活の実相が別だという意味があります。それぞれが「違う体」を得て「違う思い」を持って生きているという現実を言い当てています。私たちの現実は、「~のような人だとは思わなかった」という思いの応酬でありましょう。愚痴も出てきます。それは、自分の思いとその人の思いとが違っていることの告白であります。同体どころか「一心」にさえなれないのが実感であり、凡夫の実相だと言えます。
 ある先生が、「一心同体」という夢から出発するのではない。相思相愛と言っても、「体が別」すなわち「思いは別」だと認識して、なおかつ「心は同じ」という世界を明らかにしなければ、本当の豊かな家庭生活というものが生まれることはないのではないかと仰っていたことを覚えています。
 その「心は同じ」について、『歎異抄』にはあるエピソードが紹介されています。親鸞聖人は、法然聖人に入門されて念仏の教えを深く信じ、会得されていかれますが、あるとき、信心について聖人と同門の先輩との間で議論が起こりました。
親鸞 「私の信心と、法然聖人の信心は、同じものです」
先輩 「あなたの信心と、お師匠である法然聖人の信心が同じであるはずはなかろう」
親鸞 「確かに法然聖人は、智慧や学識も広くて優れておられるから、それについて私が同じと申すなら、間違いであります。しかし、浄土に往生させていただく信心に    ついては少しも異なることはなく、全く同じであります。」
先輩 「それでは、お聖人さまに直々にお聞きしてみよう」
法然 「自分の信心も、如来よりいただいた信心です。親鸞の信心も、如来よりいただか    れた信心であります。ですから、まったく同じ信心なのです。別の信心をいただ    いておられる人は、私と同じ浄土に往生することはないでしょう」
 仏教本来の信心は、周りの状況がなにも見えなくなるまで「思いこむ」「陶酔する」、「よくわからないけど、そう信じよう」といった他の宗教一般で言われるようなものとは真逆のものです。信じて、周りが見えなくなることを言うのではありません。むしろ、今まで気づかなかったこと、知られなかった「いのちの真実」について、阿弥陀如来の本願の話を聞くことを通して、深く目覚めていくことをいいます。具体的には、諸行無常や無我といった不変の道理に人生の出来事を問うことを言います。そこには、欲望や自己中心のとらわれから離れられない相に目ざめることも含まれています。真宗の信心が「酔いの信心」ではなく「めざめの信心」といわれるゆえんです。
 大師のお言葉に戻りますが、別々の「体」と「思い」で生きる者が、共に阿弥陀さまの教えを聞いて生きていくところに「一心」の生活が開かれてくることを教えてくださっているものと受けとめることができます。自分中心の枠を超えることは死ぬまでできないという、厳しくも的確な現実把捉を通して、共にお寺などで聴聞して仏心(目覚め)をいただく中に、真の「一心」の歩みが開かれるということかなと思います。そうすることで、「~のような人だとは思わなかった」となったときも、そのとき、私は、「自分の思いと一緒にいただけであった」と振り返り、気づけるようになるのでしょう。これは家庭生活だけのことではなく、人間生活の基本のこととも言えましょう。先師に教えられるところであります。