岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

法話 第47号 平成28年10月・11月発行

ケイ蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや(『往生論註』)

河智義邦

 親鸞聖人が七高僧と尊敬された中に、中国の曇鸞大師という方がいらっしゃいます。その著書である『往生論註』には、浄土教思想が空の思想とどのような関連があるかなど、とても大切な事柄が示されているのですが、その難解な思想をわかりやすく巧みな比喩をたくさん用いて説かれているので、比喩の宝庫とも言われています。少し季節はズレますが、その中にある夏にちなんだ有名な比喩を取り上げて、浄土のみ教えを味わってみたいと思います。
 冒頭にある「ケイ蛄」とは蝉のことを言います。蝉は長期間、地中で成長しますが、地上に出てきてからわずか一週間ほど泣き続けて命を終えていきます。春や秋を知らないこの虫(伊虫)は、夏(朱陽の節)を夏として知ることもできません。これは、何でも自分を中心に世界をとらえ、ことにふれては激しく自我拡大の欲求に突き動かされ、煩悩によって自分の苦を引き起こし他者に苦を与えてる事実に目覚めることのできない人間に、自他一如の広いいのちの世界に目覚めて生きよ、というメッセージとして聞けそうです。内から煩悩を克服できない者は、煩悩を中心にした世界から外へ抜け出した仏さまの言葉に出遇い、生活の中の出来事を通して自我・我執に気づき、「そうだったな」と柔軟なものの見方ができるようになるのがお念仏の世界の特色だといただいております。
 『仏説阿弥陀経』では、まずは有相の浄土荘厳(ヴィジュアル的な実体的な世界)を通して、私たちに浄土を願い、往生を期する身になってほしいと呼びかけておられます。『往生論註』では浄土の本質を、清浄(煩悩の汚れを離れ)で虚空(広大ではてない)の世界と示されています。色や形に限定されない自他一如・怨親平等のいのちの世界が浄土の本質なのです。往生していくということは、阿弥陀さまの光明の用に触れるところにこうした功徳を身に受けていく、そういう人生が始まるということを意味します。先師は浄土に向かった人の人生観は、徐々にではあるけれども変化し、その生き方(そして死生観)にも変化が生じてくると仰っています。
 「事件は現場で起きている」、十数年前に流行った映画の台詞です。理不尽な上司からの命令に対して、熱血刑事が事件の現場から叫んだ台詞でした。多くの人がその正義感に共感共鳴し、日頃の溜飲を下げたのではないかと思います。私もその中の一人でした。同じようなシーンが数年間に終了したドラマでありました。恋愛ドラマですから一概に比較はできませんが、主人公・和平さんの台詞のあとには、全く違った余韻が残りました。それは「皆現場で働いてる。それぞれの現場には、できることとできないことがあって、それぞれにやってらんねぇよ、ふざけんじゃねぇって思うことがあって。間違ってるって分かってるけどやらせなきゃならないこと、やらなきゃならないことがある。それは、別に会社とか、役場とか、そういう組織だけじゃなくて、家庭の主婦なんかもおんなじなのかもしれませんね。・・・そういうふうに思えるようになったんですね。人それぞれにはそれぞれの立場があって、それぞれの現場があるんだって」。急な指示変更する上司に対して、周りは憤っているけども、その人もまたそう言わざる得ない現場にいることに理解を示したのです。世の中には心から理不尽な事を言う人もいるとは思いますが、そのとき、自是他非の心で上司を裁きながら鑑賞していた私は、その柔軟な心にハッとさせられました。和平さんという相を通して阿弥陀さまの用(はたらき)に出遇えた思いがしました。