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法話 第48号 平成28年12月・平成29年1月発行

欲について

城福 雅伸

 欲といえば、仏教ではよくないものとして説かれていると思われがちです。
 「欲を断て」などということを聞きますと、欲がなければ何もできないのではないかと疑問に思われることも少なくないと思います。
 この疑問は正しいのです。
 実は仏教では欲は必ずしも悪いものとは言われていません。
 といいますのは欲には善の欲と悪の欲と善でも悪でもない欲の三種があります。
 このうちいけないものが、悪の欲です。仏教の哲学書には、悪の欲は貪という悪い心の働き、つまりむさぼりの心の働きと同じであるとと説かれています。
 一方、善の欲もあります。仏教の哲学書には

「欲は勤のよりどころとなる」

「善の欲はよく精進を起こす。これによって一切のよいことが助けられなしとげられる。」

と説かれています。上の文の勤とは精進のことですが、精進とはよいこと、向上に向かって努力をする心の働きです。
 つまり、善の欲は、よいことや向上に向かって努力する心のよりどころとなると説かれているのです。よいことをなしとげよう、向上しようという想いがあってこそ、その目標に向かって努力できる、そして目標もなしとげることができるのだと説かれているのです。

 次のような逸話があります。
 釈尊がまだ生きておられた時のこと、ある老修行僧が目がよく見えないため衣を縫うのに針に糸が通せず困っていました。修行僧は自分の衣は自分で縫わないといけないのです。
 そこで
「どなたか福徳を求める人よ。私のために針に糸を通してください」
と歌いました。善の行いをすると福徳(幸福、楽)がその人に来ると釈尊が説かれていたからです。幸福を求める人がおられたら目のよく見えない私のために針を通すという善を行ってくださいませんかというのです。
 そうしますと人が近づいて来る気配がしました。そして近づいてきた人は
「私は福徳を求めているものだ。さあ針と糸を私に渡しなさい」
と言われました。
 その声を聞いた老修行僧は仰天しました。なんとその声の主は釈尊その人だったのです。
 老修行僧はあわてて
「いえ、私は世尊(釈尊)に申し上げたわけではありません」
と申し上げ、またすでに悟りを完成されている釈尊がまだ福徳を求めていると言われたことについて
「すでに完全に善を行われた世尊がなぜ善を求められるのですか」
と尋ねました。すると釈尊は静かにこのように説かれました。
「善の力とその結果が深遠であることについて自分ほど知っているものはない。善を求める心は息むことなく、そのために悟りを得た。このためにまだ善を求める心は息んでいないのだ」
と。
 この「善を求める心」が欲、善法欲で、この逸話を釈尊に善を求める欲があることを示す例であるとしています。そしてこのことを欲無減といいます。
 また仏が生きとし生けるものを救済しようというのもまた欲です。この欲も息まずに仏は生きとし生けるものを救済をし続けられるのです。
 また明恵上人という鎌倉時代の名僧は
「仏道に対して欲が深い人は必ず仏道を完成させるものだ」
と述べられています。むろんここでいう「欲が深い」の欲は、悪い欲や貪、執著は異なり、善の欲のことです。やはり向上のために、よい欲を持つことが必要だと説かれているのです。
 明恵上人は「仏道を歩もう」「仏道を完成させよう」という欲は清らかな欲(清浄の欲)であるとも述べられています。

 これらからわかりますように、向上しよう、よいことをなしとげようという欲は、欲でもよい欲、善法欲といわれるものです。仏教では、そういった欲こそが、向上や仏道の完成にむかっての努力を起動し、私たちを邁進させると説いているのです。
 私たちもよい欲を持ちたいものです。