岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

法話 第49号 平成29年2月・3月発行

すべからく慚愧(ざんぎ)すべし 

譲 西賢

 今年1月14日、岐阜県山県市の養鶏場で高病原性鳥インフルエンザが発症しました。皆さんもよくご存じのように、伝染性の高い鳥インフルエンザと断定されますと、感染拡大防止のために、その養鶏場のすべての鶏は殺処分され、断定から48時間以内に地中に埋葬されます。この作業に当たられるのは、自衛隊と県の職員の方々です。

先日、あるお宅へ参りましたら、そのお宅の県職員の息子さんが、その作業を命じられて殺処分を担当してきて、心が痛いと落ち込んでおられました。お聴きすると、とてもショックです。ポリバケツに10羽ほど鶏をいれ、30秒ほど炭酸ガスを注入して殺処分し、それを所定の袋に入れて約8万羽を地中に埋葬したとのことでした。私が聴いただけでも心痛みましたから、その方の心の痛みは、察して余りあります。

普段は、鶏肉を食材として見て、フライドチキンをおいしく食べています。牛肉も食材として見て、おいしくすき焼きを食べています。でも、私たちの知らないところで、心痛めて、鶏や牛を食材に加工してくださっている方々がいてくださるのです。鳥インフルエンザは、すべての人間に、この事実を知らしめてくれているのかも知れません。何も知らずに、当たり前に、自分は罪を犯さない善人として生活している私たちに、生きていることの真実を教えてくれているのではないでしょうか。

善導大師は、『般舟讃』の冒頭で、「大きにすべからく慚愧すべし」と諭されました。

慚愧とは、人に羞じ天に羞じるということです。私たちは、自分の力で生きていると思いあがっています。働いて得たお金で清く正しく生きていると思っていますが、この思いこそ慚愧するしかないということです。心痛めて鶏や牛を食材に加工して私を生かさしめてくださる方々や、私を生かさしめるために食材となっていのちを差し出してくれる動物のお陰で生かされている事実を認識せずに生きている私たちは、慚愧するしかないのです。

 自分のプライドをとても大事にする私たちですが、プライドばかりに思いを馳せて、慚愧を忘れてしまう私たちですから、今回は、8万羽の鶏が私たちに慚愧するしかないことを気づかせてくれたのではないでしょうか。

またこんなこともありました。昨年の9月、私の義叔母が81歳で亡くなりました。訃報を聞いて叔父の家に参りましたら、義叔母のご遺体を前にして叔父は、「すまなかった。すまなかった」と言って泣いていました。義叔母は、7年ほど前に脳梗塞を患い、幾つかの病院を転院して最期を老人施設で迎えましたが、叔父は、この間一日も欠かさず病院と施設へ義叔母の介護に通っていました。その叔父が「すまなかった」と言って泣いていましたので、「何故?」と尋ねましたら、叔父は、「麻子(義叔母の仮名)は、誤嚥(口で咀嚼したものが、肺へ入ること)がひどくなって、胃ろう(胃に穴を開けて管を通し、流動食を直接流し入れて栄養・水分を補給すること)をしていた。誤嚥性肺炎を防ぐためにも医師から勧められて、生きるためには、本人も家族の誰もが最善の策と思って胃ろうの処置をしてもらった。ところが、いざ胃ろうで流動食を入れると、麻子の口が食べ物を咀嚼しているように動いていることに気がついた。その時、私は、とんでもない間違いをしたと思った。人間は、食べ物を口で味わって美味しいと感じて食欲を満たす。胃で美味しいと感じることはない。食欲を満たすことを奪って、麻子に生きることを強要していたのだ。人間の生きる尊厳を奪ってしまったのだ。」と、涙の訳を説明してくれました。

 家族の愛として、最善の医療と介護を届けているはずだったのに、とんでもない罪を犯してしまったと感じて義叔母を介護していたその後の叔父の気持ち、そして、その罪悪感のまま永遠の別離をするしかなかった叔父の気持ち、とても痛く胸に突き刺さりました。

この叔父の涙こそ、慚愧の涙ではないかと私には思えました。

 親鸞聖人は、『涅槃経』を引用して、「二つの白法あり。よく衆生を(たす)く。一つには慚、二つには愧なり。慚は自ら罪を作らず、愧は他を教えて作さしめず。慚は内に自ら羞恥す、愧は発露して人に向かう。慚は人に羞ず、愧は天に羞ず。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、畜生とす。」と諭されました。

 「自分は、必ず間違え失敗するから当てにならない。なんと恥ずべきことか」という深い自覚が慚愧です。「掛け替えのない妻に対して、最善だと判断して、取り返しのつかない間違いを犯してしまった。なんと自分は愚かな者か」という叔父の自覚が慚愧ということです。親鸞聖人と善導大師は、この慚愧こそが、人間を救う如来からの力であり、人間の自覚すべき信念だと説いておられるのです。

 昨年は、優秀な女性外科医が、「私、失敗しないので」を売り言葉に難手術を成功していく民放ドラマが、大フィーバーしました。人間の思いや憧れは、「失敗しない自分」や「プライド高き自分」です。だからドラマは高視聴率を得ましたが、その思いや憧れが、私たちを慚愧から遠ざけ自分の歩くべき道を見失わせてしまうのです。この私たちですから、阿弥陀如来という(はたら)きは、身をもって慚愧を経験させてくださるのです。高病原性鳥インフルエンザで殺処分された8万羽の鶏が、胃ろうを受けて生きてくれた義叔母が、慚愧すべき自分を見失っていることを気づかせてくれたのです。慚愧すべき自分に気づくと、私たちは、相手のミスを許すことができるのです。私たちは、失敗しない自分になることではなく、失敗するしかない自分に気づき、許し合う世界を生かされているのです。

私たちが、この上ない恥、この上ない罪、この上ない失敗と思えることこそ、阿弥陀如来が私たちを人間にするために、縁となって救ってくださるパワーなのです。落ち込むほどの失敗をした時こそ、本当の自分を取り戻すチャンスなのではないでしょうか。