岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

法話 第50号 平成29年4月・5月発行

若いうちに心がけて

蜷川 祥美

 本願寺第八代宗主の蓮如上人(1415~1499)がお話になられたことを記した『蓮如上人御一代記聞書』に、

 一、仏法ぶっぽうしゃもうされそうろふ。わかきとき仏法ぶっぽうはたしなめと候ふ。としよればぎょうもかなはず、ねぶたくもあるなり、ただわかきときたしなめと候ふ。

(『浄土真宗聖典 註釈版』)

とあります。現代語訳をしますと、以下のようになります。

 仏法に深く帰依した人がいいました。「仏法は、若いうちに心がけて聞きなさい。年を取ると、歩いて法座に行くことも思い通りにならず、法話を聞いていても眠くなってしまうものである。だから、若いうちに心がけて聞きなさい」と。

(『蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』)

 春は入学式の季節です。本学でも多くの新入生をお迎えすることができました。私も30年以上前に、大学の新入生だったことを思い出します。若い皆さんは、これから始まる大学生活に大いに期待すると同時に、不安ももっているのではないでしょうか。何が不安かというと、4年間、乃至は2年間、3年間の大学、短大生活を無事に過ごして、専門的な深い学問や技芸を身につけ、希望通りに就職できるのだろうかといったものや、私はどのような職業につき、どのような人生を歩むことがよいのだろうかといったものではないでしょうか。

 私自身も、大学入学時には希望する職業など明確に定まっておらず、漠然とした不安をかかえていました。また、50歳を超え、大学の教員という職業を得た今でも、自らの生き方はこれでよいのだろうかと自問自答を繰り返す日々を送っています。

 ただし、私の人生において、唯一、これでよかったのだと断言できる経験があります。それは、大学時代の恩師から、仏法のすばらしさについてお教えいただいたことです。

『蓮如上人御一代記聞書』に、

 一、仏法は無我と(おお)せられ候ふ。われと思ふことはいさささかもあるまじきことなり。われはわろしとおもふ人なし。

(『浄土真宗聖典 註釈版』)

とあります。現代語訳しますと、以下のようになります。

  仏法では、無我が説かれている。われこそはという思いが少しでもあってはならないのである。ところが、自分が悪いと思っている人はいない。

(『蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』)

 仏教の根本教説に「諸法(しょほう)無我(むが)」があります。真理も含めてあらゆるものに永遠不滅の実体はないという意味です。この教えから、「諸行(しょぎょう)無常(むじょう)」という教説も導き出されます。私自身をはじめこの世に存在するすべてのものは、周囲のあらゆる存在との関わりの中で生まれ、変化しながら生かされているという意味です。

 このような仏教の教説、すなわち仏法に出逢えた人は、自らのいのちは周囲の多くの方々に支えられているのだと気づき、私も他の多くの方々を支える存在になることを目指すべきであるという思いをもつようになるといいます。このことを、大学生の不安に寄せて考えるなら、私が目指している職業は、どのような意味で他者に役立つものなのか、自らの個性を活かしてより多くの方々を支えることができる職業とはどのようなものなのかといった視点をもち、自らの至らなさを反省しつつ、希望する職種にかなう能力を身につけた人になりたいというような新たな価値観を得ることができるのではないでしょうか。

 実は、大学の教員という職業につくことができた私も、自身の行っていることは、本当に学生の皆さんの役に立っているのか問う時、日々反省の連続であり、うまくいかないことだらけです。

 しかしながら、幾ばくかの経験を重ねた上で気づかされたことは、人生のどんな場面でも自らの指針となり得る仏法のすばらしさです。仏法についての私の理解は、必ずしも深いものとはいえないのですが、せめて、仏法を心がけて聞くという若い情熱だけは持ち続けたいものだと思います。

 できましたら、皆さんも、若いうちに心がけて仏法を聞き、新たな視点を得て、自らの職業観や人生観を確立する一助としていただければ幸いです。