法話 第51号 平成29年6月・7月発行
人間中心主義のあやまち
河智義邦
以前にどこかで「人間主義都市」という標語を見かけたことがありました。私がその言葉から抱く思いを勝手に述べるのですが、もしそれが人間中心主義ということであるならば、どうしてもそこにひっかかるものがあるのです。
仏教では、生きとし生ける者や人間を表す場合の原語(サンスクリット語)として、サットヴァという語を使うことが多くあります。これは、衆生とか有情といった漢字に意訳されています。衆生とは「もろもろの因縁によって生じたもの」といった意味します。つまり、その中には人間だけでなく、動物など他の生命も含まれているのです。他にも現在の私たちが他の動物と区別する意味で使っている「人間」に相当する原語にマヌシャという言葉もあります。これには「考えるもの」という意味があります。このマヌシャという語には、人間とは他の動物、生物に比べて賢くて理性的な存在といったニュアンスが含まれているように感じます。
仏典において、人間存在を表現するのにサットヴァが重用されてきたことに大きな意義を感じます。たしかに人間は他の動物に比べて大脳が発達していて、他の動物にはない特性(霊長)を持っています。しかし、その人間的理性ははたして正しく確かなものなのかどうか。釈尊はじめ、無数の仏教者達は、警鐘を鳴らし続けてきたのです。言い換えるならば、「この私」ははたして間違いもせず、確かな存在といえるかどうかということです。ひょっとしたら、人間の理性こそが自分たちの住みやすい世界にするために便利な道具を創り出し、そのためにかえって他の動物に迷惑を掛け、地球環境を破壊する行為を行ってきたとも言えるのではないでしょうか。もちろん、私もその便利な道具の恩恵を享受しているので、他人事として言うわけではありません。
サットヴァには、私たち人間も、他の生き物もすべて無量無数の因縁によって、この世界にいのちを与えられたという生命観が含まれています。いわばいのちの平等性と言えるでしょう。そして、あらゆるいのちはつながりの中でしか生存できないようないのちの仕組みになっているのです。そして、そうした地球規模で相互依存の関係の中に生きていながら、そのことに気づかないかのように、自分と他人を区別し、自分に関係があると思われることだけに囚われて生活しているのが(私を含めた)現状です。
そうした私の在り方の危うさに気づかせてくれるのが「如来の智慧」であり「大悲」です。親鸞聖人は『教行証文類』で「顛倒の善果、よく梵行を壊す」(自己中心の善はかえって大切なものを見失わせる)と述べられていて、親子や兄弟、友人同士のケンカ、国家間の争いが、互いに善と確信しながらなぜ衝突するのか。それは「自分」を中心とした善が、顛倒したものであるから、自分にとって善であっても、他にとってはそれが悪となることを指摘されています。つまり、亡くしたり離れることの出来ない、自己中心(人間中心)的な善を、「顛倒の善果」といわれるのです。『無量寿経』に「如来の智慧海は、深広にして涯底なし」という文があります。私たち人間の知恵は常に自己中心のモノサシでしか他者と関わることしかできない。それに対して、いのちの因縁生といういのちの真実に立って、自他平等のモノサシで、真に未来を見通し、徹底して人間の問題を見つめているのが阿弥陀如来の智慧であって、この智慧に接するとき私たちはそうした自分の物の見方の浅さ、狭さに気づかされ、そこから何が本当に大事なことなのか、それを探求する学びが始まるのだと教示されています。その目覚め、気づきを促す言葉こそ「南無阿弥陀仏」であり、称名念仏なのです。