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法話 第53号 平成29年10月・11月発行

平等覚を信じること

蜷川祥美

親鸞聖人の『浄土和讃』「讃阿弥陀仏偈讃」第五首に、

解脱(げだつ)の光輪(こうりん)きはもなし
 光触(こうそく)かぶるものはみな
 有無(うむ)をはなるとのべたまふ
 平等覚(びょうどうかく)に帰命(きみょう)せよ
                        (『浄土真宗聖典 註釈版』557頁)
と詠われています。現代語訳は、
阿弥陀仏のさとりの光はどこまでも果てしなく照らす。その光のはたらきを受けるものは、みな有無の邪見を離れるといわれている。すべてのとらわれを離れさせる平等覚に帰命するがよい。
                          (『三帖和讃 現代語版』8頁)
となります。

 「解脱」とはさとりのことで、阿弥陀仏を指しています。「光輪」とは仏の智慧の光明のはたらきを法輪(仏の説法)であらわしたものです。「きはもなし」とは、あらゆる世界に至り届くことを意味します。
 つまり、「解脱の光輪きはもなし」とは、阿弥陀仏の智慧の光明は教えとなってあらゆる世界を照らし、すべての人々を導くことをあらわしているのです。

 「光触」とは、仏の智慧の光明に触れることを示しており、「かぶる」とは、その光明のはたらきを受けることを意味します。また、「有無をはなる」とは、人間がいつまでも変わらずに存在できるという誤った考えである有の見と、人間が死ねば、浄土に往生することなどなく無に帰すといった誤った考え方である無の見を離れることです。
 つまり、「光触かぶるものはみな 有無をはなるとのべたまふ」とは、阿弥陀仏の智慧の光明のはたらきを受けるものは、このいのち終わった後に、浄土に往生して、変わらぬ教えそのものである仏となり、新しいいのちを得ることができるのだとあらわしているのです。

 「平等覚」とは、阿弥陀仏の異名であり、平等のさとりを与えてくださる仏であることを意味します。私たちは、この世のものを、有無、自他、生死、善悪、信疑などと二つに分けて認識してしまいます。このようなものの見方を分別といいますが、阿弥陀仏 は、そういった分別を離れて、あらゆるものを平等に救うのです。「帰命」とは、疑いなく信じることを意味します。
 つまり、「平等覚に帰命せよ」とは、阿弥陀仏の平等なさとりのこころを疑いなく信じるべきであるとあらわしているのです。

 阿弥陀仏の智慧の光は、あらゆものに届く真実の教えです。それに触れるものは皆、自分自身が周囲のものとの関わりの中で変化し続けているという真実に気付き、自身のみの利益を願う我執の心を恥じるようになります。私たちは、自身の周囲のものを、自分にとって都合のよいものと悪いものに分別して見てしまいますが、阿弥陀仏は、自身の周囲のものを分け隔てすべきでなく、すべて平等に尊いものだと見るというのです。
 もののある・なし、自分と他人、生と死、善と悪、信じることと疑いのあることなど、この世のありさまのすべてに、自分中心の価値判断をすることは、苦しみを生み出すもとになってしまいます。自分と他人、生と死などすべてが阿弥陀仏の智慧の光に照らされて輝いており、尊いのだと感じる心こそ、私たちが求めるべき心なのです。死期を悟った方が、周囲の世界を光り輝く世界だと思うことがあるようです。煩悩から離れられず、苦しみばかりのこの人生も、阿弥陀仏に出逢うためであったと思えるとき、光り輝く価値あるものへと転じられ、恐怖でしかなかった死すらも、浄土往生を果たして永遠の命を得て、思い通りに他者を救う仏と成るための旅路につくことができるのだという視点を得るならば、喜びのなかで迎えることができるのです。