岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

法話 第57号 平成30年6月・平成30年7月発行

~ともにいのち輝く世界~

河智義邦

 この法話の中でしばしば取りあげる『阿弥陀経』には、極楽浄土の荘厳相について、また舎利弗、極楽国土には七宝の池あり。(中略)池のなかの蓮華は、大きさ車輪のごとし。青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光ありて、微妙香潔なり。舎利弗、極楽国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。
という内容が説かれています。これは、様々に意訳されていますが、 如来の世界である極楽浄土においては、いかなるものもすべてがひかりかがやいています。どんな小さいものも、また大きいものも、みんなともにひかり、照らし合っています。このようなすべての存在が、そのままの姿において、ともにひかりかがやいている世界が浄土といわれるのであって、この真にすばらしい浄土こそ、私たちが心から願い求めなければならない世界である、ということを教えているのです。
  青色青光...白色白光と、それぞれのいのちがかがやく世界をめざさなくてはならないのです。
という訳を教えていただきました。よく知られている次の歌や詩にも、こうしたいのちの世界が述べられているように思います。

・咲いた咲いた チューリップの花が並んだ並んだ赤・白・黄色 どの花みてもきれいだな
・わたしが両手をひろげても、お空はちっともとべないが、とべる小鳥はわたしのように、地面をはやくは走れない。 わたしがからだをゆすっても、きれいな音はでないけど、あの鳴るすずはわたしのようにたくさんのうたは知らないよ。すずと、小鳥と、それからわたし、みんなちがって、みんないい。(金子みすゞ)

 人間で言えば、自分が自分の色に輝くことができる。つまり、自分の本当の姿を偽ったり、隠したりして生きなくてもいいということです。「そんなことは当たり前ではないか」と思われるかも知れませんが、私たちが生きているこの社会は、そうなっているでしょうか。本当の姿を偽らなければ生きにくいということがあるように思われます。
 例えば、近年社会問題となっている「LGBT」に関する問題があります。「LGBT」とは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字を並べた略称で、性的少数者のことをいいます。この問題に対する無理解な発言が国会議員からも出たのは記憶に新しいところです。
 今シーズンのNHK朝ドラ「半分。青い」を視聴されているかたも多いと思います。その第65話に、主人公の鈴愛の漫画家時代の親友として登場していた、通称「ボクテくん」が、郷里の母親から手紙が届きます。そこには、父の病気が重い。着物が嫌いじゃないだろうから、実家の呉服店を継いではどうかと勧められています。金沢の鬼才という(という役の設定)から、あの加賀 百万石を代表する金沢市なのでしょう。その呉服店だと、さぞかし保守的なことが想定されます。母からの手紙は、ゲイだの漫画家だのをやめて戻ってこい、いいお見合い相手もいるぞ、と続いていました。その彼にとって秋風塾(という漫画家志望生が集まるアトリエ)はまさに極楽です。 彼の才能が認められ、性的嗜好を矯正し、人生を決めつけようという人はいません。理解者しかいないのです。しかし、ボクテは追い詰められて、その世界を壊されようとしています。「漫画家と違ってゲイはやめられないんだよ」、という台詞がズッシリ響きました。
 そういう状況が今でもあり、それは、赤い色を赤く輝かせることが難しいということでしょう。本当は赤いのに青いふりをしなければ生き辛い。その生き辛さは本人の責任ではありません。そうさせているのは、その周囲の人です。そういう社会では、多くの人が自分自身の色で輝くことを難しくさせられている状況にあると言えます。青い色が青く輝く、その当たり前のことが、私たちの社会では、必ずしも当たり前ではないのです。自分の色を偽らなくてもいい、ただそれだけのことがすでに充分大きな功徳なのです。
 浄土真宗では、そうしたいのちの平等世界の実現を、阿弥陀さまの願いとして、念仏申して功徳を頂き、少しずつ「人生が仏法化」され、私たちの生き方にしていけるよう説いています。