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法話 第59号 平成30年10月・平成30年11月発行

真宗から見る死刑制度

譲 西賢

 今年の7月6日、1995年の地下鉄サリン事件を始め多くの無差別殺傷等の罪で死刑が確定していたかつてのオウム真理教の元代表始め7名の死刑が執行され、さらに7月26日には、同じく死刑が確定していた6名の死刑も執行されました。皆さんは、この死刑執行および死刑制度をどのように感じられますか。
 今日の日本人の多くは、被害者遺族の立場に立って、一定レベルを越えた極悪非道と思える罪には、「極刑やむなし」と判断されるようです。けっして遭遇したくはありませんが、もしも、私の家族や大切な知り合いが殺人の被害者になったら、私も加害者を心底恨み、加害者に極刑を望む気持ちは湧き上がってくると思います。人間ならすべての人に共通の感情ではないかと思います。しかし人間は、感情に基づいて判断し行動するばかりが生きる道ではありません。
 仏教の開祖釈尊のことばに「実にこの世においては、(うら)みに報いるに怨みをもってしたならば、ついに怨みの()むことがない。怨みをすててこそ()む。これは永遠の心理である」とあります。また、「我らは、ここにあって死ぬはずのものであると覚悟をしよう。このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる」ともあります。
 人間には決して消すことのできない煩悩があるから、怨みをもつことは避けられない。だからといって煩悩のままに怨みで報復しては、人間として生きられないと諭しておられます。煩悩を優先していのちの真実を歪めていることに気づけと教えておられます。
 親鸞聖人は、「わが心のよくて殺さぬにはあらず。また害せじと思うとも、百人・千人を殺すこともあるべし」「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」「煩悩具足のわれらは、いずれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはわれみたまいて願をおこしたもう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり」と述べておられます。
 人間は煩悩具足ですから被害者感情は、当然の感情であるけれども、その感情を最優先して死刑を是認することは、釈尊の教えに照らせば是認できません。また、親鸞聖人は、縁によっていかなるふるまいをしかねないのが人間であるから、その縁を通して、いかに自分の愚かさに気づき、阿弥陀如来の(はたら)きを拠り所とした生き方に心を引きかえることが人間を生きる目的であると説いておられます。百人・千人も殺すことはありうると言われる親鸞聖人に対して、縁によって複数の人や無差別に殺傷したからと死刑を執行することは、そこから自身の心を翻し、生きる目的を人間の手で奪ってしまうことになります。加害者たる死刑囚と同じ罪を司法たる国家が犯すことになります。
 日本の死刑制度は、釈尊や親鸞聖人のお諭しに照らしてみると、大きな問いを持たずにはいられません。この度のかつてのオウム真理教犯罪者への死刑執行は、真宗門徒の私たち一人ひとりが、浄土真宗の教義の根幹と社会感覚のハザマで葛藤し、阿弥陀如来の用きをいただいて、いかなる自己と出遇っていくのかが問われているのではないでしょうか。死刑制度の問いは、「私たち自身が、何を目的として、どのように生きようとしているのか」が問われていることと同じように思えます。