岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

法話 第60号 平成30年12月・平成31年1月発行

走れ正直者

蜷川祥美

 2018年8月15日、『ちびまる子ちゃん』の作者、さくらももこさんが乳がんでお亡くなりになりました。そのニュースを聞いたとき、なぜか「リーンリンランラン ソーセージ」というフレーズが頭に浮かびました。
 さくらさんは、歌手の西城秀樹さんの大ファンであったようで、フジテレビ系で放映されたアニメ『ちびまる子ちゃん』の主題歌を西城さんに唄っていただいたそうです。その唄が『走れ正直者』(作詞 さくらももこ、作曲 織田哲郎)で、その一節が頭に浮かんだのです。
 その冒頭を引用します。

交差点で100円拾ったよ
今すぐコレ交番届けよう
いつだってオレは正直さ
近所でも評判さ
リンリンランラン ソーセージ
ハーイハイ ハムじゃない
なんてことは
ぜーんぜん 彼女も言ってない
ヘーイヘイ 日本中知っているさ

 私は、さくらさんと同じ歳のおじさんですが、この唄を聞く度、正直者として一生懸命生きていけたらすばらしいなと思ってしまいます。自分は、本当に正直に生きているかどうか、不安なのです。
 『デジタル大辞泉』によれば、「正直」とは、「正しくて、うそや偽りのないこと。また、そのさま。」と解説されています。そうであれば、「正直者」とは、正しく、うそや偽りのない者ということになります。
 正しいこととは、真実にかなうことと言い換えてもよいかもしれません。
 浄土真宗の宗祖、親鸞聖人は、阿弥陀仏やその浄土、阿弥陀仏の本願に示された凡夫救済のための手段である念仏、本願によって衆生に与えられた信心などについて「真実」であるとお示しくださいました。
 『浄土和讃』には、「真実信心」の「真実」という言葉について、 

マコトニミトナル
シンハグヰナラズケナラズグヰハイツワルヘツラウシンハカリナラズ
ジチハコナラズムナシカラズ

と解説されています。「真実」とは「まことに実となる」ことであり、そのうち、「真」とは「偽(いつわり・へつらう)ではなく、仮でもない」ことであり、「実」とは「虚(むなしい)ではない」ことだと仰るのです。「まことに実となる」とは、すべてのものが仏となるという結果を得ることができるという意味で用いられています。いつわりや仮のこころでは、仏となることができませんので、むなしい結果に終わってしまうのです。
 また、『唯信鈔文意』には、『観経四帖疏』の「内懐虚仮」を解釈されて、

「内」はうちといふこころのうちに煩悩を具せるゆゑに虚なり、仮なり。「虚」はむなしくして実ならぬなり。「仮」はかりにして真ならぬなり。このこころは上にあらはせり。この信心はまことの浄土のたねとなる信心なり。しかれば、われらは善人にもあらず、賢人にもあらず、賢人といふは、かしこくよきひとなり。精進なるこころもなし、懈怠のこころのみにして、うちはむなしく、いつはり、かざり、へつらふこころのみつねにして、まことなるこころなき身としるべしとなり。

と仰っています。煩悩をそなえるわたしたちのいつわりのこころはむなしく、浄土に往生して仏と成るための因などないので虚仮であり、真実のこころなどないのですが、煩悩のけがれがなく、あらゆるものを救う善なる阿弥陀如来のこころを賜ること、すなわち真実の信心をいただくことが、浄土に往生して仏となるための因となるので、真実なのだということなのです。
 真実のこころなどないわたしが、阿弥陀如来の真実のこころをいただくと、まず、自らのこころのうそやいつわりに気づかされることになるといいます。いつわりのこころは、仏とは正反対のこころです。自らの利益のみにこだわり、すべてのものの救いを目指そうともしていないことを恥じることになるのです。しかしながら、阿弥陀如来の真実のこころに気づいて、そのこころを得たものは、必ず浄土に往生して仏となることが定まることをよろこぶ人生を歩めるのだともいわれます。
 そうであるなら、浄土真宗の教えを学ぶわたしが目指す「正直者」とは、自らのうそやいつわりをしっかりと見つめ、恥じるこころを持ちつつ、阿弥陀如来の真実のこころに気づかされ、仏のようなこころをもつことを目指す人生を歩むものということができないでしょうか。
 将来のことばなど何一つ見えない不安だらけのわたしですが、このような「正直者」になることを目指すなかに、真実の生き方が見えてくるような気がします。「走れ正直者」という言葉は、私を勇気づけてくれています。