岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

法話 第63号 令和元年6月・7月発行

仏教の教えを通して考える「しあわせ」

蜷川 祥美

 現代では「しあわせ」を「幸せ」と表記することが多くなりました。「幸せ」には、山の幸、海の幸などをこいねがい、それが手に入ったという意味があるようです。しかし、一体どのくらい手にすることができれば「しあわせ」といえるのでしょうか。これが手に入れば、次はあれがほしくなります。際限なく「貪り」続けている私のこころに気づかされます。そして、欲しいものが手に入らない、もしくは、手に入ってもすぐにあきてしまい、新しいものがほしいといって、休む間もなくはたらき続けて、ストレスをため込み、苦しみ続けているのがわたしたちのすがたなのです。
 仏教では、私たちのこころに苦しみが生まれる原因を、自らの煩悩というこころのはたらきがあるからだとします。そのうち、もっとも苦しみを生み出す煩悩を「三毒の煩悩」といいます。
 貪欲・・・何かを自分のものにしたいという激しい欲求。
 瞋恚・・・自分の思い通りにならないことへの怒り。
 愚痴・・・真実がわかっていないこと。
 このようなこころがはたらくかぎり、いつまでたっても変わらぬ「しあわせ」は実現しないのではないでしょうか?
 お釈迦さまが説かれた真実の一つに「縁起」の教えがあります。
 私たちは、多くのいのちをいただき、多くの方々のはたらきによって生かされています。それらがなくなれば、生きていくことができません。縁起の教えは、そのようなことを意味しています。 それがわからず、自分のいのちは、他のいのちと関わりなく生き続けることができるのだと間違って考え、他人が自分の思い通りにはたらいてくれないことに怒りを覚え、他の人と山の幸、海の幸を分け合って過ごすべきなのに、自分だけのものにしよう思い、それが実現しないからといって苦しんでいるのです。
 私を生かせてくださっている周囲の多くのいのちや、多くの方々のはたらきに気づくことができれば、そのありがたさに、喜びや感謝の思いが生まれるはずなのです。
 先ほど述べたように、現代では「しあわせ」を「幸せ」と表記することが多くなりましたが、本来は「仕合わせ」と表記すべき言葉です。
 「仕合わせ」には、出会いという意味や、めぐり合わせが実現したという意味があるようです。
 この世界のあらゆるものが、お互いにつながりあい、かかわりあうなかで生かされているのならば、私たちは、それらに出会うことによって生きているはずです。その出会いに気づくことこそ喜びであり、「しあわせ」なのだという意味なのです。実は、私たちは、既に「仕合わせ」なのに、それに気づいていないだけなのではないでしょうか?
 浄土真宗をお開きになった親鸞聖人は、お釈迦さまがお説きになった『仏説無量寿経』というお経によって、阿弥陀如来という名の仏さまの教えにであわれました。
 阿弥陀如来のこころは、あらゆるものを平等に価値あるものとして見て、分け隔てなさいません。また、阿弥陀如来のこころは、全ての世界を包み込んでおり、あらゆる生きとし生けるものと同じこころとなって、苦しみを抱えるものには、その原因を教え、のりこえさせて、まことの喜びを与えるといいます。
 私たちのこころは、周囲のあらゆるものを自分にとって都合がよいか、わるいかといった区別をして見ています。自分にとって都合のよいものが手に入ったり、自分の側にある時は喜びのこころが生まれますが、私のこころが変化するに従い、都合のよいものも変わってしまいますし、突然失われたり、遠ざかってしまうことがあれば苦しさを感じることになります。また、自分にとって都合がわるいものが、近づいてきた場合も苦しさを感じます。このように、自分の都合によって、あらゆるものを分けて見ているので、常に苦しさを感じながら生きているのです。
 そのようなころとは正反対なのが、阿弥陀如来のこころです。阿弥陀如来は、私と出会い、ささえてくださるあらゆるものを、平等に尊いものと見ます。さらに、私と出会った他の人々が、苦しさを感じているなら、同じこころとなってともに苦しみ、さらには、その苦しみを解決していく方法を伝えて、ともに乗り越えていこうとするというのです。こうした阿弥陀如来のようなこころをもつことこそ、私たちが目指すべきことなのです。
 「南無阿弥陀仏」という言葉には、阿弥陀如来の理想のこころを信じて生きていきますという意味があります。
 あらゆるいのちを大切に思い、あらゆるいのちのための行いをなさっている阿弥陀如来のこころに学び、周囲のもの自分の都合によって区別して見てしまう愚かなこころを反省し、多くのいのちあるものにささえられていることを知り、多くのいのちあるものとの出会いを喜び、ささえることを目指す生き方をしていこうと思えることこそ「しあわせ」であると示されたのが親鸞聖人なのです。
 私は今まで、皆さんに「しあわせ」になりたいですか?と聞いてきました。なりたくないという人は一人もいませんでした。でも、何が「しあわせ」なのかといった課題は、なかなか答えが出せないようです。みなさんも、あなたにとって「しあわせ」とはどのようなことか、一度考えてみていただければ有り難く思います。