法話 第65号 令和元年10月・11月発行
自分で誰かの靴を履いてみること
西川 正晃
季節が進み、読書の秋真っ盛りです。この季節になると、今年の本屋大賞はどの作品が受賞するのか気になります。今年は、英国在住のブレイディみかこ氏の作品、「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」が選ばれました。著者の息子が主人公で、この本の題名も、息子の殴り書きからとったものだそうです。英国は公立でも小・中学校を選択できるシステムになっています。当然、人気の高い学校には応募が殺到しますが、著者の息子が入学したのは、白人労働者階級が通う元底辺中学校でした。著者の息子は、名門カトリックの小学校から、「ホワイト・トラッシュ(白い屑)」と差別語で呼ばれる白人労働者階級が通う中学校に進学したのです。その中学校で成長する息子の姿を描きながら、今の英国が抱える様々な問題が重なって、とても興味深い本に仕上がっていました。
この物語で、ちょっと気になる言葉が出てきました。「シンパシー(sympathy)」と「エンパシー(empathy)」です。どちらも「共感」と訳せるのですが、その意味はかなり違いがあるようです。「シンパシー(sympathy)」は、「誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示す行為」、「ある考え、理念、組織などへの支持や同意を示す行為」、「同じような意見や関心をもっている人々の間の友情や理解」等と解説がなされ、人間が抱く感情で努力する必要がなく、どこか他人事の傾向を感じます。「エンパシー(empathy)」は、「他人の感情や経験などを理解する能力」と解説がなされ、想像力が必要な知的作業で、自分のことのようにわかちあう作業のように感じます。「エンパシー(empathy)」は、中学生の主人公に言わせると「自分で誰かの靴を履いてみる」ことなのです。
曇鸞大師は、『浄土論註』のなかで、「苦を抜くを『慈』(maitrī)という、楽を与うるを『悲』(karuṇā)という。慈によるが故に一切衆生の苦を抜く、悲によるが故に衆生を安んずること無き心を遠離せり」と述べておられます。苦悩の根元を断ち切り、往生一定に救い摂るの阿弥陀如来の働きを教えられたお言葉と味わえます。そのはたらきを表す「慈悲」について、「抜苦与楽」という言葉で解説されています。文字通り、「抜苦」は「苦しみを抜く」という事であり、「与楽」は「楽を与える」という事ですから、慈悲とは「苦しんでいる人の苦しみを抜いてあげたい。楽しみを与えてあげたい」と思う阿弥陀如来のお心そのものなのです。
仏の慈悲によって、抜くといわれる苦しみは、いつも私たちが苦しんでいるお金が欲しいとか病気などを治そうとかいう一時的な生活苦ではありません。私たちの苦しみの根っこである苦しみ悩みの根本原因を言います。それを徹底的に調査して抜き去ってみせるということなのです。仏の慈悲によって与えられる楽しみは、永遠に変わらない幸せなのです。こうした阿弥陀如来のはたらきは、他人事のように悲しむだけの行為ではありません。まさに「エンパシー(empathy)」そのものと味わわせていただけます。衆生の苦しみを分かち合い「仮令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔」(たとえ 我が身は地獄の苦しみの中に在あろうとも、 私は努力精進し決して後悔することはありません)【讃仏偈】とまで誓ってくださるのです。阿弥陀如来が私の靴を履いてくださり、その感覚を分かち合い、はたらき続けてくださっている姿を思うとき、思わず御恩報謝の気持ちに包まれるのです。