岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

法話 71号10月・11月 発行

コロナ禍の中での身業説法 

河智 義邦

・「禍」と「災い」
 世界中を席巻している新型コロナウイル感染症は、いまだ収束が見通せない状況にあります。「新しい生活様式」「3密回避」「ソーシャルディスタンス」といった言葉に代表されるように、私たちはライフスタイルの変更を余儀なくされ、「コロナ禍」という言葉を聞かない日はありません。
 禍は「わざわい」とも読みますが、同じ読み方をする「災い」が、天災的な災害、防ぎようのないものを意味するのに対し、禍は、人為的な努力によって防げたもの、防いでいくことができることを表すそうです。
 前向きに捉えますと、「これからも感染予防に気をつけ頑張っていきましょう」となるのですが、そうとばかり思えない私の性根があることもまた事実です。「どうして防ぐことができなかったのか」「当たり前の日暮らしを奪ったのは誰なのか」、ネガティブ思考がくすぶっています。親鸞聖人はお手紙の中で、生死無常の道理は、如来さまが詳しく説いておられることですので、改めて驚かれるには及びませんと言われています。
 無常の教説は、この世界に久しく同じ状態で留まるものはないことを示すとともに、何よりも「人生はあなた(私)の思い通りにはならない」というお諭しでもあります。
 ところで、巣ごもり生活が続いていたときに、娘と近所の公園に散歩に行くことがありました。あるとき、木の下にいたアマガエルのカラダが灰褐色になっていたのを興味深く見ていました。カラダの仕組みを話しますと、「上手にできるんだね」と感心していました。
 カエルは与えられた環境・状況に上手に自分を合わせて生きています。コロナ禍での私たちの生活も、その状況に合わせての生活をしています。いや、強いられている、というのが私の本音です。

・私の本性知らせる
 人間はカエルと違い恒温動物で、どんな環境でも自分の体温を一定に保つような体の仕組みになっています。
 では、心はどうでしょうか。心も常に一定の状態を保つようになっているように思います。しかし、それは常に何事も自分の思い通りにしたいという意識(我執)で一定していて、これが私の性根の正体です。
 そしてまた人間の意識は、大きな変化や未知なるものを受け入れず現状を維持することに固執するという特性も持ち合わせているようです。私自身、特にその傾向が強いと実感します。
 親鸞聖人の、『教行証文類』には、阿弥陀さまの光(教え)に触れる人は、身と心が柔らかくなるとあります。阿弥陀さまの広大な智慧のお心をいただく人は、自分のの頑なな心に気づくとともに、いかなる状況が現れてこようとも、ありのままにそれをよく受容し、それに順応できるように、柔軟な考え方・生き方ができるとも示されています(もちろん、人権侵害や違法行為などを受けた場合は対象外です)。
 教育学者として名高く、浄土真宗のみ教えに生きられた東井義雄先生の詩集の中に、「ご説法」という作品があります。

 雨の日には 雨の日にしか聞かせていただくことのできない 言葉を超えた ご説法 がある 
 老いの日には 老いの日にしかきかせていただけない ご説法がある 
 病む日には 病む日のご説法がある        

(『東井義雄詩集』探究社113頁)

 お念仏申すことが身についている人には、自分の思いに逆らうできごとが次から次へと押し寄せてきても、それを阿弥陀さまのご説法と受け止め、そのことの意味を見つめ、人生の味わいを深めていくことができるのです。阿弥陀さまの教えは様々な姿・できごととなって、その都度、私の性根を知らせ、柔軟心に転じて下さいます。公園で出会ったカエルの姿は、私にとって身業(姿・態度による)説法でありました。そして、最近になってわが家では小さな子犬を迎えました。いまはやんちゃな子犬が家庭の中心になっていて、なんとか安定を保っていた私の日常生活はまたもや大きく揺らいでいます。しかし、この子犬にもまた様々に言葉を超えて多くのことを説法してもらえるものと考え、共生(ともいき)していきたいと思っています。