岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

法話 76号8月・9月 発行

鳩の王よ、再び

城福 雅伸

昨今、小山田圭吾氏やDaiGo氏の、弱者や弱い立場の人、困窮者などへの態度、見方、接し方、あるいは主張が、弱者や弱い立場の人、困窮者などをいじめたり虐待したり、嘲笑したり、排撃・排除するものだとして問題視されました。

 ここでは少し違った面から意見を述べてみたいと思います。

 弱者や弱い立場の人、困窮者などをいじめたり虐待したり、嘲笑したり、排撃・排除する考えを肯定しない人も多いのですが、その一方で、インターネットを見ておりますと、小山田圭吾氏が直接いじめたわけではないという意見もあり、またDaiGo氏の主張や考えに同感されたり支持される方も少なからずおられました。

 さて、社会では、子供のイジメが問題視され、批判されていますが、実際の社会では、子供のイジメとは形は変わりこそすれ、弱者や弱い立場の人、困窮者、競争から脱落した人などへのイジメや排撃、排除が容認されているように思います。

 むしろ、規制緩和・構造改革が推進されて以降、特にそのことをもってそれが社会だ、社会の厳しさのことだ、適者生存だ、競争原理だと積極的に肯定すらされているように思います。 

 拙著で、子供の世界で問題になっているイジメを取りあげた後、「大人の社会でもやはりイジメはあります。大人の社会では巧みに強弱関係や法律、政治力を使った合法的な顔をしたイジメが行われていることは公然の秘密といえ、子供のイジメを批判する資格など大人にあろうはずはありません」(『明解仏教入門』春秋社p33)と書いたようにです。

 その根底にあるのは他者の痛みや苦しみに対する感性の欠如のように思います。

 あるお店がある組織よって不当にも閉店せざるを得なくなった時、お店側が閉店の挨拶と事情を書いた張り紙を出しました。それを見たお店の入居ビルのオーナーは態度を一変させ冷酷に追い出しにかかるなどし、また買い物に訪れていた人々も張り紙を横目に行き交うのみでした。

 そこにホームレスの人が、たまたま通りかかりました。そして、張り紙を見て一読するや行き交う人々にこう訴えました。

 「お店の人、かわいそうやよう。何とかしてあげて」

 このような声を挙げたのはこの人ただ一人でした。

 この人は、いつも通行の邪魔にならないようにモータープールには入らずそのわずかな軒下を借り段ボールを敷いてそこで熱心に読書に耽っておられる姿が印象的でした。

 不当な行為をした組織、その不当な行為を容認するばかりか、さらにその不当な行為で困っている人の足を平然とひっぱることをする冷酷非情なビルのオーナーや不当な行為や人の困っていることなど興味さえない人々、一方不当なことは不当であると感じとり、人が困っていることは気の毒と鋭く感じとり、困っている人のために声をあげるホームレスの人。

 現実において、人間性が歴然と分かる事態でした。しばしば人間は内面で決まる、と説かれている意味がわかる出来事です。

 同時に唯識で五姓各別説が説かれている意味も理解できたような気がしました。

 唯識の五姓各別説では、無性有情は「ただ人天の果を証するのみ」、つまり、天上界に生まれ、天人の快楽や幸福を得、また王侯貴族や富豪、権力者、社会的地位のある人にはなり得るが、永遠に悟りは得ることは出来ない=気高い心、悟りの智慧の原因となるのものを持ち合わせていない(筆者の解釈では、何が尊いか精神の高みは永遠に理解できない。そういった感性自体を欠如させている)とされていることはおそらく真実であろうと確信しました。

                 ◇ ◇ ◇

 以前、講話とその講話集で、上野千鶴子氏の東京大学の入学式の祝辞を取りあげました。その祝辞の趣旨は次のとおりです。

 東京大学に入学できた人は「がんばれば報われる」と思ってきたかもしれないが、東京大学への合格と「がんばれば報われる」と思えることそのこと自体が、自分の努力の成果ではなく、自分を励ましたり、ひきあげてくれたり、評価してくれたり、褒めてくれた人々がいたという恵まれた環境のなせるわざであることを忘れてはならない、そういう環境を持たない人もいることを忘れてはならないと。

 そして

「あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力を、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください」

と。

 私は、この上野氏の祝辞をとりあげ、上野氏が意識されているか否かは別にして、仏教が真理とする縁起の考え方を踏まえておられもので、非常に感動的な言葉です、みなさんもそうあって欲しい、大学、短期大学部に来て学ぶことができる幸福をどうか、自分のためにだけにではなく、他の人々のために分かち与えるようにしてください、と述べました。

 困っている人を貶めて平気な人々は、成果を獲得できたのはすべて自分の努力の成果であり、故に成果を出せない人は、努力が足りないか、怠け者であるという考えがどうしても下地にあるようですが、上野氏の指摘されるようにそれは大きなまちがいです。

◇ ◇ ◇

 弱者、困窮者などに対するイジメやひどい仕打ち、排撃、排除、巧みな強弱関係や法律、政治力を使った合法的な顔をしたイジメなどに対する私の意見は、かつて本学の機関紙「ともしび」第14号に書いた「鳩の王」で述べたとおりです。

 今回の問題についての意見もまったく同じですのでそれをそのまま結論として引用します。

(なお、格差社会を作り出し弱者を、より苦しめる原因となった規制緩和について、これを成り立たせる前提となる「自由」は、仏教の哲学の理論からは存在しないことと、近代資本主義がプロテスタントの強力な禁欲精神と規制があった地域のみから成立したというマックス・ヴェーバーの主張から、規制緩和の理論はそもそもが成り立ち得ない誤った理論であり、規制緩和は一部の人の目先の利益のために結果的に貧富の差を広げ、勤勉な国民性や倫理、経済、文化にまで破壊的な結果をもたらしかねないことを指摘しましたが、これは拙稿「仏教と経済倫理・企業倫理-規制緩和の陥穽-」(『印度学仏教学研究』52-2、平成16年(2004)))で述べたとおりです)

以下は「ともしび」第14号に書いたものです。

                  ◇ ◇ ◇

 これは私が高校生であった時、実際に見たほんとうの話である。

ある日、白い何かが地上に散らばっているところを通りかかった。何だろうと近づくとパン屑だった。そこには餌を見つけた鳩が何十羽と集まっていた。

 白いパン屑の上を鳩たちが前後に首をふりふり歩き回りパン屑をついばんでいた。

 と見ると、その中に一羽の片足の無い鳩が混じっていた。他の鳩にくらべ体は薄汚れ、貧相で二回りばかり小さく、哀れなことこの上もない。この片足の無い鳩も餌を食べようとパン屑に近づいた。

 とその時、他の鳩がわざわざ駆け寄って来て、片足の無い鳩をつついた。なんということだ。片足の無い鳩は怯えた表情をして逃げ出した。そして鳩の集団から遠ざかったところで悲しそうな顔をして立ちつくしていたが、そこから少し離れた所にパン屑が落ちているのを見つけそれをついばもうと歩き寄った。

 ところが他の鳩がそれを見つけるや走り寄ってつついた。片足の無い鳩はパン屑をとれずに逃げた。片足の無い鳩はさらに遠いところに離れ、そこから仲間たちが盛んに餌をついばんでいるのを悲しそうに見ているだけとなった。

 このかわいそうな片足の無い鳩を、さらにかけよってきて「来るな」とばかり追い回す鳩もいる。それを見ていた通りがかった人がかわいそうに思って落ちていたパン屑を拾い片足の無い鳩のほうに投げてやった。しかし、めざとくそれを見つけた他の鳩が、さっと飛び込んで片足の無い鳩をつついて追い払い横取りして行く。わざわざ弱い鳩の邪魔をするのだ。なんと仲間の鳩は意図的に弱い鳩に餌を食べさせないのである。毎回このようにされるためその片足の無い鳩は餌がとれず身体も小さく痩せているのだろう。

 ああ、永遠にこの鳩は餌が食べられないな、かわいそうに、そう思った時である。上空が真っ黒になったかと思うほど大きな黒いものが降りてきた。

 それは群を抜いて大きい鳩だった。体の色つやもよく、強そうで風格をもった鳩である。鳩の王といってよい。

 王の鳩はパン屑がまかれた中央にすくっと立つや餌取りに興じている鳩どもをゆっくりを見回した。文字どおり睨んだ。すると信じがたい光景が出現した。まるで、潮が引くように鳩たちすべてが王の鳩におびえ遠ざかり、王の鳩を中心に半径数メートルの一羽の鳩もいない空間がひろがった。

 その時、一羽の鳩がパン屑をとりに近づいてきた。王の鳩はそれを見つけるや鋭くつついた。近づいた鳩はあわてて逃げる。他にも餌をついばもうとした鳩がいると王の鳩は大股で駆け寄るとくちばしで一撃をくらわす。そのような事が数回繰り返されると、もう他の鳩たちはちじみあがってしまってしまいパン屑の散らばったところからかなり離れた場所から息を潜め立ちつくし、もはやパン屑をとる鳩は一羽もいなくなった。皆、首を下げ、下からおもねるような目つきで王の鳩を見る。

 王の鳩は圧倒的に強いのだ。あぁ、これであの片足の無い鳩は完全に餌にありつけなくなった。かわいそうに。王の鳩が餌をすべてとるのだろう。そう思った。

 が、次の瞬間、おどろくべきことを目にすることになる。王の鳩は、後ろにいた片足の無い鳩の方をゆっくりとふりかえり今のうちに食べろというそぶりを見せたのだ。片足の無い鳩はおずおずと前に出てくると、パン屑を食べたはじめた。

 その間、王の鳩は周囲の鳩たちを見回し威嚇し続けている。威を払うというのはこのことであろう。

 鳩の中にも空気の読めないのがいると見え、前に出て来て片足の無い鳩をつついたのがいた。その瞬間、それを見つけた王の鳩は空気の読めない鳩に襲いかかった。足で背中をおさえつけ、くちばしで一撃、二撃、三撃と食らわす。羽が舞い散り、その鳩はたまらず木の枝の上に逃げ出したが、王の鳩はそれでも許さず、その鳩を追って木の枝に飛び上がりさらに一撃、二撃。ついに空気の読めない鳩は空へ逃げ出したが、それでも王の鳩は許さず、それを追撃して大空に飛んでいった。

 王の鳩のいなくなった地上はといえば、鳩たちはそのあまりにも恐ろしい光景を見て凍りついてしまっていた。文字どおり恐ろしさで動けないのである。王の鳩がいないにもかかわらず、もはや歩く鳩など一羽もいない。鳩たちは直立不動のように立ったまま一羽としてパン屑をついばむことがなかった。そこをただ片足の無い鳩が餌をついばんでいたのである。

 やがて、王の鳩が帰ってきた。片足の無い鳩は王の鳩の方を向いて十分に食べたというそぶりを見せ、飛び立った。それをみきわめると、王の鳩も飛び立ち、片足の無い鳩と違った方向に消えていった。王の鳩がいなくなった後もなお、再び餌をついばむ鳩はなかった。

 王の鳩は舞い降りた時から飛び立つまで、自分は餌を一度も食べなかった。パン屑に目さえやらなかったといってよい。その姿は威風堂々とし品格というのはこのようだと思わせるものであった。鳩の王はただただ片足の無い鳩に餌を食べさせるためだけにやってきたのだ。その姿は美しくもあった。

 鳩が弱いものをかばい、いじめる者を懲らしめ、自分のことは抜きにし他者を生かすためだけの行為を行ったのである。

この鳩の王にくらべ人間はどうであろうか。今、人間世界ではこれと逆のことをよいことだとしている節がある。鳩の王のような生き方は否定される。ひたすら競争原理を働かせ、格差をつけ、すべて自己責任に帰し、弱者は社会から退場することが適者生存であり、故に弱者は切り捨てよという考えが主流となっているようである。

 パン屑を取る鳩を競わせ、片足の無い鳩に希望を失わせ、生きることを断念させることこそ鳩社会が発展するというものである。片足の無い鳩をつつき、餌を食べさせず、快哉を叫ぶ多くの鳩の生き方こそが優れた生き方であるという価値観である。では、将来、何らかの事情でもし多くの鳩が弱くなったり傷ついた状況が出現すれば鳩社会はどうなっていくだろうか。

 どちらの生き方をすべきだろうか。私はそれが今、問われていると思っている。私は鳩の王のような生き方がすばらしいと思っている。少なくともそういった姿勢を心がけることが優れていると思う。そこに美しさがある。

 日本人の道徳観の底にあるのは美観であると言った人があった。鳩の王の生き方は、少なくともそういった美観にかなう生き方だと思う。

 鳩が必ずしも人間より劣っているとは思えない光景であった。