法話 80号4・5月 発行
ロシアのウクライナ進行に寄せて
城福 雅伸
<識者の発言と日本国憲法と国是>
ロシアがウクライに軍事侵攻し、ゼレンスキー大統領率いるウクライナがこれに抗戦している。
日本のある識者は、ゼレンスキー大統領はすぐにロシアに降伏すべきだと主張した。そうすればウクライナ人の命は失われずに済むと。
この識者の意見に多くの批判が起きている。
しかしながら論理的には日本人は、この識者と同じ意見でなくてはならないはずである。
日本人は自由や文化、尊厳、幸福等より生命を尊重するはずだからである。
さらに日本国憲法の前文と第九条にのっとれば自ずとこの識者の意見が導き出される。
日本国憲法の前文には、日本国民は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」とあり、日本が他国の軍事侵攻を受けた場合、軍事侵攻してきた他国、つまり「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」即座に降伏し身をゆだねるべきことが説かれているからである。
従って生命尊重と日本国憲法の立場に立つならば、ロシアに侵略されたウクライナは、国民の生命を守るため、ロシアを信頼して即時に降伏すべきだというその識者の主張が正しいはずである。
<仏教では>
仏教は、宗教の中では非常に特殊なもので、武器を執らず、また一切の武力を遠ざける。草木の生命まで尊重する非常な生命尊重、平和主義である。
イスラム教がインドに侵攻した時も、仏教は僧尼が虐殺されながら一切抵抗しなかった。そしてインドでは仏教は滅んだ。
仏教は無抵抗の平和主義をつらぬき、それ故に滅亡した。無抵抗の平和主義は滅亡する覚悟があってこそ実現されると仏教が身をもって示したといえる。
<日本人の自国民への冷淡さや薄情さが怨みや報復の連鎖を止めた?>
ロシア軍が一般住民を攻撃、虐殺、陵辱し、ロシアへ連行していることが報道されるようになると日本のテレビなどのMC、識者は、これを悲しみ厳しく批判する。しかし、その時、かつて日本もロシアから侵攻と虐殺を受け、シベリアへ抑留され、アメリカによる原爆、空襲等による一般市民への虐殺、連合国軍による占領下での婦女子への暴行・陵辱があったことに触れ涙した人は管見ではいなかった。
諸外国の人々から、日本人は親切で誠実であり、マナーがよく、秩序正しく、またすべてに清潔であると評価されている。おそらくその評価は正しいと思う。
しかし、人間には多様な面があるから、上記のことから、日本人は自国民に対しては、極めて冷淡で薄情な面があると思われる。
<日本人の「普通じゃない」感覚が仏教の教えと同じ効果を発揮した?>
教皇ピウス12世は原爆投下を批判し、バングラデッシュは戦後、原爆投下を立案し投下したポール・チベッツに自国での講演を許さなかった(髙山正之氏による)。
このような人々の感覚から見ると日本人の自国民が受けた虐殺などへの感覚は「普通じゃない」ようである。
「普通」であると憎悪による報復の連鎖になる可能性が高い。
仏教では、貪(むさぼり)の対象が傷ついたり無くなると貪と憂受が働く。つまり「悲しい、悲劇だ」と思う。瞋(憎悪)の対象が傷ついたり無くなると瞋と喜受が活動する。つまり憎い敵が死ぬと「嬉しい。楽しい」という恐るべき心が起きると分析する。つまり戦争において憎悪の対象である敵兵が死に敵国が衰微し滅亡すると喜びを感じるのである。これが戦争を悲劇と感じながらも、報復の連鎖が止まらない原因である(煩悩と受の関係を論じたこと、及びこれによって煩悩の恐ろしさを明らかにしたのは本稿が初出であろう)。
そのため仏教は怨みは「怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」(中村元訳『ダンマパダ』)と怨みは捨てるしかないと説く。
日本人には、他国による自国の民間人への原爆や空襲等による虐殺にも、シベリア抑留にも、婦女子への陵辱・暴行にも憎悪しなかったという「普通じゃない」感覚があるため、これが結果的に「怨みを捨てる」のと同じ効果をもたらしたのではないかと思われる。
<結びに代えて>
仏教の視点からは、日本国憲法の前文は偽善と言え、それよりもユネスコ憲章のいう「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信を起こした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった」ということの方が偽善に遠く仏教の見方に近い。