岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

法話 81号6・7月 発行

黒白二鼠(こくびゃくにそ)の喩え

蜷川 祥美

仏教では、「諸法無我」「諸行無常」の教えを説きます。真実も含めてあらゆる世界に何一つ変わらぬ実体は存在しないので、この世のものはすべて一瞬一瞬変化し続けており、生まれたものは必ず滅びるという意味です。

私たちの身体や心は、周囲からの影響を受けて変化し続けており、歳を重ねた後には必ず死が訪れます。手に入れた新車もすぐに古くなってしまいます。皆が健康な家族との生活も、誰かが新型コロナウイルスに罹患すれば、一瞬にして崩れ去ってしまうかもしれません。しかしながら、私たちが日々の生活の中で求めているのは、変わらぬ自分自身であり、自分の所有物が新しいままであることや、現在の環境が永遠に続くことなど、自らの欲望が充足し続けることなのではないでしょうか。

 このような私たちのありさまが、『譬喩経』の「黒白二鼠」で喩えられています。ある旅人が、果てしない広野をさまよっていたところ、突然、狂った象に襲われます。逃げ惑ううちに、一つの空井戸を見つけました。その空井戸には、都合よく一筋の藤蔓が底に向かって垂れ下がっており、それに掴まって下に降りて行くことができました。狂った象は、井戸の外で唸り続けていますが、とりあえず危機は脱することができました。

しかし、ふと気づくと、井戸の底には、恐ろしい毒龍が潜んでいて、旅人を飲み込もうと、大口を開けて待ち構えているではないですか。驚いて、藤蔓にしがみつき、周囲の壁に足を掛けようとすると、四隅に一匹ずつ毒蛇がいて、噛みつこうとしています。今はもう、藤蔓のみが命の綱なのですが、今度は黒白二匹の鼠がどこからか出てきて、代わる代わるその蔓の根をかじっているのです。藤蔓をかみ切られては一大事と、左右に揺れながら悶え苦しんでいると、その揺れが伝わり、蔓の根のところにある蜂の巣からポタポタと蜂蜜がこぼれ落ち、その中の五滴が、旅人の口に入ったのです。そのあまりのおいしさに、旅人は現在の危機的状況をすっかり忘れて、さらに蜂蜜を味わおうと、藤蔓を揺らし続けてしまうのだというお話です。

 このお話の中で、旅人が果てしない広野をさまよっているのは、人間が真理に気づかず、無意識な迷いの生活を送っていること、狂った象に襲われたことは、無常に責められていること、空井戸は、生死の淵のこと、毒龍は、死の影のこと、四隅の毒蛇とは、我々の身体を構成している四大(地・水・火・風)のこと、藤蔓とは、命の綱のこと、黒白二匹の鼠とは、昼夜の時間のこと、五滴の蜂蜜とは、五欲の享楽(眼・耳・鼻・舌・身の五根の対象となる色・声・香・味・触の五境に対する享楽を指しています。いずれも変化し失われるものであるのに、永遠に変わらずに楽しむことができると思いこんでしまうということを喩えています。真実に気づかないまま生きている私たち凡夫のありさまを示しているのです。

 今、私自身が手に入れたいと思っている変わらぬ自分自身、自分自身が所有していると思い込んでいる地位や名誉や財産は、どれも、周囲からの影響を受けて成り立つものなので、永遠に続くものではありません。それらを手に入れたと思った一瞬の喜びの後には、失ったときの苦しみがやってきます。

この世のものは変化し続けるのだという現実をしっかりと認識し、変化を受け入れ、楽しむくらいの余裕をもつことができればよいですね。歳を重ねるということは、老化が進み、思い通りに身体が動かなくなることを伴うかもしれませんが、多くの人生経験を積み、若い方々にアドバイスができ、多くの方々に支えられてきた自分の命の大切さに気づく機会を得ることができるかもしれません。手に入れた新車がすぐに古くなっても、修理を繰り返すうちに、愛着がわき、より大切にしようという気持ちが生まれるかもしれません。誰かが新型コロナウイルスに罹患すれば、心配してくれる家族の存在をより一層感じることができ、罹患したことも意義あることと捉えることができるのかもしれません。

「諸法無我」「諸行無常」の教えなど変わらぬ真理に基づいた生き方、すなわち、今の一瞬一瞬を貴重なものだと知り、その一瞬を活かす生き方とはどのようなものなのか問い続けることこそ、人生にとってもっとも必要なことだと思うのです。