岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

法話 83号 10月・11月 発行

「重誓偈」~超世の願い~

河智 義邦

1.後期の勤行「重誓偈」
 羽島キャンパスでは、後期の勤行の時間に「重誓偈」というお経を読んでいます。これは親鸞聖人が「(凡夫である私が救われる道を説いた)真実の経典」と示された『仏説無量寿経』(『大経』)の中にある偈頌(げじゅ=仏さまをたたえる歌)です。五言四十四句の十一偈から構成されていて、短時間で読むことが出来ます。『大経』では、主人公となる法蔵菩薩が衆生救済の方法などを四十八通りにわたって誓った、「四十八願」を述べた直後に示されています。四十八願の要を、重ねて誓われる内容であることから「重誓偈」といい、また、それが三つの誓いとして説かれていることから「三誓偈」ともいわれています。冒頭に、
   われ超世の願を建つ、かならず無上道に至らん。この願満足せずは、誓ひて正覚を成らじ。
   われ無量劫において、大施主となりて、普くもろもろの貧苦を済はずは、誓ひて正覚を成らじ。
   われ仏道を成るに至りて、名声(南無阿弥陀仏)十方に超えん。
   究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。
というように、3つの誓いに自らの願いを整理されています。その願いに込められた意(おこころ)を、私たちの願いと比較しながらいただいてみたいと思います。もちろん、それに当てはまらない人もいらっしゃると思いますので、「私の願い」としておきます。

2.世(私の日頃)の願い
 さて、夏休みには地域によっては「地蔵盆」という行事が行われます。「お地蔵さん」と呼び親しまれている、「地蔵菩薩」の縁日(8月24日)を中心にした2,3日間に渡って行われる法要のことをいいます。子供が中心の行事で、近畿地方を中心に根付いています。お地蔵さんに対する信仰は元々はバラモン教からはじまり、それが仏教に取り込まれ、、中国を経て平安時代には日本に伝わってきています。仏教行事ではありますが、中身は、呪術信仰的な民間信仰となっています。死んで迷いの世界へいった人を救う地蔵、願いをかなえてくれる地蔵、苦しみを代わって引き受けてくれる身代わり地蔵、村のはずれに立って災いを除いてくれる地蔵。人間の悩みや悲しみの数だけ地蔵さんがあるのでしょうか、日本では沢山の地蔵さんがいます。
 地蔵菩薩は、六道それぞれを駆け回り、すべての存在を救うという意味で、6体セットで置かれることも多く、六地蔵とも言われます。その地蔵信仰にまつわる昔話を伺ったことがございます。
 ある村に二つのお地蔵さんがいました。一つは何でも願いをかなえてくれるお地蔵さんです。もう一つは、人間の守るべき道、真実の世界や生き方を教えてくれるお地蔵さんです。どちらにみんなお参りするかというと、当然何でも願いをきいてくれるお地蔵さんです。病気を治してください。お金を儲けさせてください。長生きしますように・・・大繁盛です。もう一方のお地蔵さんはというと誰もお参りしません。 そういう村に一人の綺麗な娘さんがいました。この娘さんに二人の男が恋をします。どうしても結婚したい。二人の男は互いにそう思っていました。
  「そうだ、村には何でも願いをかなえてくれるお地蔵さんがいる」。一人の男が思いつきました。
  「よし、お願いしよう」 「お地蔵さん、どうかあの娘さんと結婚させてください」。効果抜群。その願いがかなって娘さんと結婚することできました。幸せいっぱいです。ところが、面白くない男が一人います。娘さんに恋をしていたもう一人の男です。幸せそうな二人をみるにつけても、腹が立って煮え繰り返ってきます。「今に見ていろ。よーし、こんどは俺がお地蔵さんにお願いしてやる」。
  「お地蔵さん、どうか憎たらしいあの二人を殺してやってくれ」。願いがかないました。とうとう結婚したばかりの幸せいっぱいの若い二人は死んでしまいました。これをみていた村人は、さすがに反省しました。
 「願いをかなえてくれるお地蔵さんばっかり拝んでいるとみんな不幸になってしまう。それよりも、人の守る道や真実の生き方を教えてくれるお地蔵さんにお参りせんならん」と。
 それからは、何でも願いをかなえてくれるお地蔵さんには参らずに、人の生き方を教えてくれるお地蔵さんにお参りするようになったということです。
私達の日常は、ともすれば自分中心の、自分が良ければいいという願いに振り回されがちです。しかし、大乗仏教では、そういう処に本当の幸せがあるのではなくて、すべての人を救いたい(利他心)という精神(願い)の中にこそ、私の幸せがあるということを説いています。お地蔵さんも菩薩ですから、本来はそうした精神を伝える方です。

3.超世の願い 法蔵菩薩の願い
冒頭の三つの願いの内容をまとめますと、法蔵菩薩は、あらゆる人々に、心貧しきものに、まことに願うべき事は何かを届け、まことの幸せをめざすよう、その願いを「南無阿弥陀仏」との言葉に込めて、これを称え聞き続けさせ、忘れることなく人生の苦を乗り越えて生きて欲しい、と願われているのです。後期は、この「重誓偈」の意(こころ)をしっかりいただいていきましょう。