岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

法話 第52号 平成29年8月・9月発行

倒見の凡夫

譲 西賢

 皆さんは、京都の西本願寺御影堂南側の諸殿を拝観されたことがありますか。ご存じのように西本願寺の建物の多くは、豊臣秀吉から寄進されて建立された当時の桃山文化がそのまま今日まで伝承されていますから、国宝です。

 諸殿の最初の部屋である対面所の向かいに、能舞台があります。そこに一つの工夫がしてあります。対面所の廊下は日が当たってとても明るいのです。その明るい廊下から能舞台を見ますと、能舞台の背面は真っ黒で何も見えません。板の壁があるだけのようにしか見えません。ところが、日はまったく当たらず暗く感じる対面所の部屋のなかに入って、その能舞台の背面の壁を見ますと、そこには見事な緑色の松がはっきりと見えます。

 明るい所から暗いところを見ると見えない物も、暗い所から見るととてもよく見えるということです。背面の壁に緑色の松が描かれているのは真実ですが、その真実は明るい所からではなく、暗いところから見ないと見えないということです。

 私たち人間は、有頂天になってスポットライトが当たるがごとく、思い通りにことが運んでいると思える時は、得てして真実が見えないものです。思い通りにことが運ばず、暗く落ち込んでいるときの方が、真実が見えるものです。苦悩しないと真実に気づけないのが人間であることを西本願寺の能舞台と対面所は教えてくれています。

 中国の曇鸞大師は、「仏光よく無明の闇を破す。ゆえに仏をまた智慧光となづけたてまつる」と如来のはたらきを讃えておられます。私たちが闇に身をおいたときに真実が見えることがあるのです。人間は幸せを求めますが、思い通りに生きていけることばかりでは、真実が見えませんから、如来さまは、私に苦悩や当て外れをくださって真実に気づかせてくださっているのです。私たちの苦悩は、如来さまの智慧の光なのです。

同じことを台風からも気づかされます。最近の台風は、中国大陸に上陸かと思いきや、直角に曲がって、九州に上陸し日本列島を縦断するコースを辿る台風が増えているように思えます。よその国へ上陸する台風は、いい台風に思えて、大陸へ上陸直前に進路を変えて日本へやってくる台風は、とてつもなく悪い台風に思えます。日本に上陸せず大陸に上陸した台風は、大陸で多くの被害や犠牲者を出しているかも知れませんが、自分に被害がなければ、私にとってはいい台風です。そう思う私の心は蛇蠍のようです。台風は、自分の都合に基づいて判断する私の身勝手さを教えてくれます。台風は来ない方がいいとしか思えませんが、ダムの水を潤したり、海の水をかき混ぜたりする点については、台風が来ないと困ることもあるのです。

 人生も同じことが言えるのかも知れません。病気をしたり、ケンカをしたり、掛け替えのない人と死別したり、大失敗をしてとても恥ずかしい思いをしたり、私にとって最悪としか思えない経験は沢山あります。でも、そのことは、私がいのちの真実に気づき、それを受け容れて生きていくためには、とても大切な経験なのかも知れません。

 中国の善導大師は、お釈迦さまが私たちに教えを説いてくださったのは、自分の(おも)いに執着して、真実をさかさまに受け止めて生きている「倒見の凡夫」の私たちのためだと説いておられます。事の良し悪しや幸・不幸を、私たちは、自分の念いに一致するかどうかで判断するから倒見の凡夫です。よその国でどれだけ犠牲者や被害が出ていても、自分の国へ上陸しなければ、「よかった」と判断するから倒見の凡夫です。

明るい所からでは必ずしも事実が見えない倒見の凡夫の自分に気づかせていただき、台風は来てほしくないのですが、自分勝手で倒見の凡夫の私には必要だから、阿弥陀様がわざわざ、連れてきてくださるのだと受け止めてみると、中国大陸直前で直角に曲がってやってくることは、私たちには、ありがたいことではないでしょうか。仏教は、私の判断の当てにならなさを気づかせてくれる教えということができます。