岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

法話 68号4月・5月 発行

新型コロナウイルス伏滅と仏教

城福 雅伸

 仏教は自分と他者の幸福のため(自利と利他。悟りがその最高)、また現在だけではなく、未来の幸福(現当二世の安楽)をめざしています。
 そのために、自分のみならず、他者に尽くすことは尊いこととしています。
 この他者に尽くすことを仏教では利他といい、布施に含まれます。
 布施の範囲は広く、いわゆる財物を与えることもあれば、危難を救うこと、安心を与えることも入りますし、礼儀正しさや看病まで入ります。
 また、行動のみならず、言葉による布施(柔和な言葉を語る。励ましなど)もあり、よい心を持つことも布施になります。
 ありとあらゆる他者のためになるものは、すべて布施であり、利他といえます。
 では、今回のような新型コロナウイルス蔓延下での「他者のために尽くす(利他)」とは、直接の対応をされている医師や看護師など医療関係者の他の、一般人である私たちは、どう考えるのでしょうか。

《新型コロナイウルス蔓延下で「密室・密閉・密接を避けることや手洗い、うがいを励行したり、出歩かないこと」等自体が自利利他になり、他者に尽くすことになります》

 新型コロナウイルスについて、「密室」や「密閉」「密接」を避け「手洗いやうがいを励行し、出歩かないように」等という要請を受けて、法的な規制もないまま多くの人が自発的にこれらに従いました。
 その結果、日によって増減はあり完全とはいえないまでも、新型コロナウイルスの蔓延は一時の勢いを失ったようです。
 つまり、一人一人がとった「密室」「密閉」「密接」を避け「手洗い、うがい、出歩かない」等の行動が、新型コロナウイルスの蔓延の勢いを弱める大きな一歩になったことは疑う余地はありません。
 これらの日本人の行動は仏教的にも正しいことで、一人一人が利他、つまり他者に尽くし、社会に尽くしたことに他なりません。
 仏教におけるこの理論背景は以下のとおりです。

<理論背景 その1...戒律の背面から考える理論>

仏教では、「生きものを殺さない」ということは、「生命を与えているに同じ」とします。ものを「盗まない」ということは「ものを与えるに同じ」です。
 積極的に「与えている」のではありませんが、奪っていない、妨害していないということは消極的であれ「与えている」ことになるのです。
 これは戒律を背面から考えているものです。
 新型コロナイウルスを直接消滅させる薬や罹患を防ぐワクチンは現段階では未だ開発に至っていないようですが、新型コロナウイルスを消滅させる薬やワクチンに代えて、対抗策としたのは「密室」「密閉」「密接」を避け「手洗い、うがい、出歩かない」等ということであったのであり、それが結果的には効力を発揮したことがわかります。
 私たちは「密室」「密閉」「密接」を避けたり「手洗い、うがい」は自分を守ることであっても積極的に新型コロナウイルス消滅に対応しているわけではないと考えます。
 ましてや「出歩かない」等ということは「何もしていない」ことであり、「行動していないこと」に他なりませんから、新型コロナウイルス蔓延抑止や伏滅には何もしていなかったように思いがちです。
 しかしそうではありません。
 「密室」「密閉」「密接」を避けたり、「手洗い、うがい」をすることは自分が罹患することを防ぐばかりではなく、自分が罹患して他者にうつすということを防ぎ、さらには自分が罹患し病院関係者などの力を割くことを防ぎ、その結果、新型コロナイウルスにすでに罹患した他の患者さんや他の病で苦しんでいる人のために、その分の治療や対応時間、さらに薬類や医療機器などを振り向けることにもつながり、対応や治療を促進することにもなります。
 「出歩かなかった」等のことも同じです。「出歩かなかった」等は、以上に加え、より直接的に蔓延の連鎖を断つ非常な貢献であり、自利と利他を満たす行為に他ならないのです。
 これらはいずれも自分の罹患を防ぎ、他者の罹患を防ぎ、罹患の鎖を断ち切り、新型コロナイウルスの蔓延を抑止し、医療崩壊や医療に携わる人の負担を軽減し、それをもって新型コロナウイルスに罹患した人や、その他の病気の人の治療に益々力を注げる環境を作り出し、新型コロナウイルス対応を始め多くの病気で苦しむ人を治癒しやすくして行くことを助けることになるという、まさしく布施行、菩薩行といってよいものです。
 新型コロナウイルス蔓延に対する日本の対応を見ますと、「密室」「密閉」「密接」を避けたり「手洗い、うがい、出歩かない」等という一見「小さな行動」や、時によれば「行動をしない」ことこそがが、新型コロナウイルスの蔓延を抑止し、医療崩壊等をも防ぐ布施行、救済活動の一翼にもなるという、仏教のものの見方と実践の考えが理解できる問題であるように思います。

(『明解仏教入門』p219「□寄り道⑰戒律の遵守と布施-」参照)

<理論背景 その2...さんじゆじようかい三聚浄戒から考える理論>
 三聚浄戒というのは、三聚浄戒という戒律があるのではなく、一つの戒律の条項(きまり)を三つの心持ちから守って行くということです。
 一つは悪を止めるという心持ちで守る、二つ目は善を行うという心持ちで守る、三つ目は他者に尽くす(利他)という心持ちで守る、ということです。
 例えば、高校や大学の授業や講義で、先生が「講義(授業)中、私語をしてはなりません」という注意をするとします。
 そうしますと、「講義(授業)中、私語をしてはなりません」という注意を、一つ目として、他者の受講を妨害する悪い行為をしないという心持ちで守るということになります。と同時にそれは講義室の静謐性を保つという善行を行っているに他ならないという心持ちで守ることになります。これが二つ目になります。さらに三つ目として、講義室の静謐性を保つということは他者(友人)が学習をしやくなるように助け、友人の成長を促進していることになる(学習を助け他者の成長を助ける=他者の幸福のために尽くしている)という心持ちで守るということです。
 戒律や「きまり」というと一つ目でしか考えないことが多く、深く考えても二つ目まですが、大乗仏教では、他者に迷惑をかけないことは利他であり、他者に尽くしていることになるのだと考えます。
 ここからわかりますのは、新型コロナウイルス蔓延下で「出歩かない」等というのは、それが社会的に要請されているから取り組む(一つ目)という他に、他者にウイルスをうつさないという善行であるという心持ちで取り組む(二つ目)、そしてそれは新型コロナウイルス蔓延を抑止、伏滅し、医療崩壊を防ぎ、罹患者が減る分、医療等の対応をすでに新型コロナウイルスに罹患した人や他の病で苦しんでいる人々に振り向けられ社会を助けることにつながるという心持ちで取り組む(三つ目)ということになります。  

(『明解仏教入門』p109~p113参照)
 このように「密室」「密閉」「密接」を避け「手洗い、うがい、出歩かない」等を実践すること、特に一見「何もしていない」ことに見える「出歩かないこと」も、まさしく新型コロナイウルス蔓延を抑止し、それは他者を罹患させず、医療崩壊をも防ぎ、人々を助け、社会に貢献することになる、ということが仏教の理論から言えるのです。
 ただ今回は、今回の蔓延状況などの諸条件の中で、日本の医療機関や社会システムなどの整った環境があり、そこに医師、看護師の方々をはじめとする医療関係従事者の身を挺しての献身的な活動があり、そこに所得減や業務停止、失業、廃業等という悲惨な状況までをもすべて国民個人が負担ししかも耐え忍び、そこに上記のような一般国民個々の真摯な対応が効果を発揮し、抑止が効いたと考えるべきでしょう。新型コロナウイルス対策と負担のほぼすべてを国民個々の個人技と負担、そして忍耐力に依存して対応したと言ってよいでしょう。
 そのため、アメリカのメディアは日本(政府)はすべてまちがった対応をしたが(なぜか)すべてが正しい方向に進んでいると指摘しています。つまり、指導者層はすべてにまちがった対応をしたが国民個々が正しい対応したため乗り切ったということでしょう。
 ですから、第二派、第三波が危惧され、しかもウイルスの変異の可能性も指摘されている中、今後も、今回と同じく「まちがった」対応をしながら、「正しい」対応や抑止と負担と犠牲は医療関係者と国民個々に大きく依存する方法を採り、今後も抑止ができると考えると、限界が出て、蔓延抑止がうまくいかない可能性もあるのではないかと危惧されます。
 なお、三密という言葉が使われていますが、三密は仏教用語にありますので悪いイメージをつける使い方は避けたいものですが、誰も指摘しないのは不思議です。