岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

法話 70号8月・9月 発行

阿弥陀様のお心はまなざしの心 -自分中心の私に気づかされ、真実を見つめる-

西川正晃

マスクをすると・・・
 先日、とある保育園の園長先生と話をする機会がありました。普段から笑顔を絶やさず、子どもたちと接している先生方を誇りに思っておられました。新型コロナウイルス感染症予防のため、保育中にマスクを着用することがあたりまえになった頃、若いA先生が笑っていないことに気づかれました。マスクを使用していない時は、A先生は、口角を上げて表情も豊かにされていたので、園長先生は素敵な笑顔と思っておられました。ところが、マスクをして口元や顔のほとんどが隠れた状態になった時、目だけが笑っていないことに気づかれたのです。そのことを園長先生はとても気にしておられました。しばらくすると、A先生が園長先生の所にやってきて、「子どもはかわいいのですが、保育が楽しくありません。違う仕事で夢を追いかけたいとずっと願っていました。保育園を辞めたいと思います」と話されました。子どもと対しているのに、目の前の子どもを見ずに、自分の夢を見ていたので目が笑っていなかったのかもしれないと園長先生は納得されました。そして、再出発を心から喜ばれて送り出されたそうです。
 園長先生の話を聞いて、二つのことを感じました。まず一つは、A先生の苦悩を見抜かれたことです。相手の心をみてとることはとても難しいことではありますが、些細なことからでも相手の思いを受けとめ、感じ、わかろうとされています。そしてもう一つは、相手を受け入れようとする姿です。自分の考えと違うものであったなら、無意味なものとして決めつけてしまいがちです。しかし、園長先生は自分が描く理想像に少しでも近づけようとはせず、A先生の気持ちを受けとめ、共に喜んでおられます。この園長先生の対応は素敵だなと思いました。そして、A先生に向けられた深いまなざしは、他の先生方やこどもたち、保護者の方にもきっと向けられていて、みんなが幸せな時間を過ごしておられるのだろうなと感じました。
 私だったらどうだろうと考えてみました。まず、目が笑っていないということに果たして気づくことができたでしょうか。表面的なしぐさや言葉がけなどから、なんとなくこれでいいやと見過ごし、わずかなサインから真実を読み取ることができなかったと思います。また、たとえそれをみてとることができたとしても、笑っていない行為を批判したり、辞めるという決断を非難したりして、自分の思い通りにならないことに、自分の感情をさらけ出していたのではないでしょうか。


大悲のはたらき
親鸞聖人はご和讃の中で、次のように詠われています。

信心のひとにおとらじと
疑心自力の行者も
如来大悲の恩をしり
称名念仏はげむべし

(『註釈版聖典』611頁)


 私たちは、真実を見つめ、相手の立場に立って生活することが、どれだけ大切であるかを知っています。そうありたいと常に考えている自分がここにいます。ところが、何かうまくいかないことが起きると、相手のせいにし、腹を立て、自分だけが正しいのだと思ってしまう自分もここにはいます。どちらが自分かではなく、どちらも自分なのです。相手に対して疑いの心をもって、その結果自分勝手な言動と、その言動に同調させようとする働きかけは、真実が見えなくなり、まさに自分勝手そのものの生活です。
 私の力で、自分中心の私をあらためることはできません。自己中心的な自分をなくすことはできません。親鸞聖人は、そんな私であったとしても、大悲のはたらきによって念仏者になったのですから、如来大悲の恩を知り、ありがとう・おかげさまと感謝して念仏を称えましょうとお示しくださっています。如来大悲の恩を知ることで心が翻ったその瞬間、自力の行者であったとしても、かたくなな私の中に、相手の悩みや怒り、喜び等ありのままの姿にふれ、真実を見つめようとするのです。そして、ともに考え、ともに喜び、ともに歩んでいく相手に寄り添うまなざしの心が現れてくるのです。こうして気づくことができるのは、阿弥陀様の必らず救うというはたらきに、すでに出遇っているからだと、味わわせていただいております。