岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

法話 73号2月・3月 発行

はからへないままに救はれている私

蜷川 祥美

はからへないままに救はれている私。
怒りのままに
腹だちのままに
悲しみのままに
与えられないまま
不足したままに
救はれてをる自分の姿を
魂の御法の鏡によつて、泌々とながめる時
其處には、唯、はからひの無い
涯(はて)しのない、大宇宙があるのみです。

 いつわらず、かざらず、ありの姿のままで、生かされて往(ゆ)くより他に何も知らぬ私なのです。有縁のおもむくところ御教導たまわらんことを。  拝 掌
                         (中村久子著『無形の手と足』)

 本学の必修授業「宗教学」でその生涯を紹介している中村久子(1897~1968)さんの言葉です。 久子さんは、岐阜県高山市に生まれ、3歳の時に特発性脱疽にかかり、両手、両足を切断するという苦難に遭われましたが、母あやさんの「人間である限り仕事のできるものとならなければならない」という教育方針のもと、ひとつのことに何年も、何十年も努力を重ね、ご飯を箸を使って食べること、書道、裁縫、雑巾がけなど、一通りの仕事をなさっていらした方です。
 成人した彼女の仕事場は、見世物小屋でした。「だるま娘」という芸名で舞台に立ち、口にくわえた筆で字を書いたり、口を使って裁縫などを披露していたそうです。
 その芸は、一世を風靡し、さらに、婦人雑誌の懸賞実話コンテストに「前半生を語る」と題した文章を応募したところ、一等当選したことなどから、彼女の存在は、多くの人々に知られることになりました。
 全国から講演の依頼が多く寄せられ、彼女は、芸人生活に別れを告げ、講演活動を行うようになります。しかし、そのような状況の中、精神的行き詰まりが生まれてきたのです。
 大変な努力を重ねて生きてきたことに対する誇りが自らを高みに立たせ、他者を見下すこころが生まれ、聖人君子のようにふるまわなければいけない自分に苦しむということになったのだといいます。
 そんな時、彼女のこころの支えになったのが、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人の言葉を伝える『歎異抄』でした。彼女は、親鸞の教えに出逢い、与えられた境遇の不幸を恨むのではなく、阿弥陀如来のすべてを見通す大きなこころにつつまれ、ありのままの自分自身を受け入れて、あらゆるご縁をよろこぶ生き方に目覚めたのだといいます。

 冒頭に示した中村久子さんの言葉を、私なりにあじわってみます。

 思い通りにすべてのものを救う能力をもちたいと思ってもかなえられないままに、阿弥陀如来に救われている私。
やさしいこころをもちたいのに、怒りのこころを捨てられないままに、
思い通りにならないことへの腹だちのこころを捨てられないままに、
多くの別れを受けとめられず、悲しみのこころを捨てられないままに、
自由に動かせる手足を与えられないままに、
みんなをしあわせにする力も不足したままに、
阿弥陀如来のすべてを照らす智慧のこころに出逢った自分の姿を、
如来の鏡によって、しみじみとながめる時、
そこには、ただ、自分へのこだわりなど何の役にも多立たない無限に広がる大宇宙の真理があるのみです。
 いつわらず、かざらず、ありのままの姿のままで、阿弥陀如来のおおきなこころの中に生かされて、浄土に往生させていただくより他に何も知らぬ私なのです。さまざまなご縁をそのまま受けとめて生かされていく人生に、如来の御教導をいただけますように願います。                阿弥陀如来を合掌し拝みます。

 私はこんなに努力しているのに思い通りにならないなどといった思いは、誰もが一度はもったことがあるのではないかと思います。しかしながら、人間の限られた能力では、かなわないことが多いのです。しかし、そのことがなかなか受けとめられません。阿弥陀如来のすべてのものを救う大きな心に出逢い、一人一人が自らの愚かさをありのままに受けとめ、ともに浄土往生を果たし、仏と成ることを目指す生き方こそ、私たちにできる本当の生き方なのではないかと思います。