岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

法話 75号6月・7月 発行

仏教と呪術・民間信仰

河智 義邦

 かつて釈尊は、晩年にお弟子から、「あなたが亡くなられたら、私たちは何を依りどころとして生きていけば良いのでしょうか?」と尋ねられ、その際のお返事が、初期経典に残されています。

この世で自らを島とし、自らを依りどころとして、他の人を依りどころとせず、法を島とし、法を依りどころとして、他のものを依りどころとせずにあれ」
(自らを灯明とし法を灯明として、他を灯明とするなかれ。自らを依所とし法を依所として、他を依所とするなかれ)

 有名な「自灯明・法灯明(じとうみょう・ほうとうみょう)」の教説です。人生を生きるについては、常に自分自身の主体的な責任において生きると同時に、普遍の道理に学び随って生きることを薦められました。この普遍の道理とは、あらゆる存在や事象は「縁によって生まれ・変化し・消滅する性質を有している」という「縁起の道理」のことを言います。諸行無常(すべての存在や事象は変化する性質がある)・諸法無我(すべての存在や事象には固定的な本体はない)というのも同じ意味になります。とにもかくにも、釈尊は、各自の主体的責任において普遍的原理である「法」に基づき生きなさいとお諭しになったのです。釈尊の生きた時代におけるインド世界では、人々は神々にすがったり、占いや呪術、おまじないに頼ったりするなど、迷信的信仰に囚われるなどしていました。本当に自分の人生を「自由自在」に生きるためには、先ずもってそうした不合理な信仰やそれを薦める人物(占い師や教祖)など=「他」(他力本願のことではないのでご注意下さい)から解放され、「真の自己」の在り方を探求することを説かれたのでした。ここに仏教の基本的な姿勢があります。
 時代は移り、20世紀最大の理論物理学者のアインシュタイン博士(1879-1955)は、
  宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教にも欠陥がある。
と言い、世界的数学者の岡潔(おかきよし)博士(1901-1978)は、
  宗教なき科学は非人間的であり、科学なき宗教は信ずるに値しない。
と同様のことを語られました。お二人のお心を、医療工学者で物理学者、平和学研究者の安斎育郎先生(立命館大学名誉教授)のご著書(『人はなぜだまされるのか』)に基づいて、拝察してみます。
 安斎先生は「宗教」と「科学」はそもそも役割が相違するもので、科学は危機の原因を解明し、それを解決するための合理的方法を探求するものであると、その役割を説明されます。しかしながら、科学の機能にも限界があって、例えば科学は、ある目的を実現するための合理的な手段を与えることはできるが、科学をいかなる目的を実現するために応用するかは(使用する人の)価値の選択の問題であって、科学それ自体からは導かれないと言われています。つまり、どんなに素晴らしい発見、発明をしたとして、それを、生産の効率性や私たちの生活の利便性を高めることに使うか、あるいはその技術を多くの命を奪う大量破壊兵器や、環境破壊をもたらすものに使うかといった、価値の世界には直接関与しないと言われます。これに対して、現在の世の中にあって、宗教はそうした科学至上主義的な人間生活の在り方の反省の上に、「意味のある生き方とは何か」について積極的に提起すべき役割があると言われます。そして、科学が扱わない領域、すなわち非暴力・愛・利他・慈悲・共生などの宗教的理念は、自然・人間・社会の平和的な関係を創出するうえでの指導理念となりうるとして、その役割を評価されています。
 しかしながら、現代科学が到達し得た体系的知識と矛盾する主張は、科学の発展段階に即して大胆に再評価することが必要があるとも仰っています。科学的思考と矛盾することを説く宗教は、つまるところ、観念の所産(そう思い込む所に成立するもの)であって、「真実性」がなく「普遍性」がないように思われます。
 両者は本来的に役割(次元)が違うものであるが、知的で合理的思想体系・科学的思考と矛盾するかどうかは、宗教との関わりを考えるうえの大きな基準と言えるのかも知れません。先のお二人の言葉のお心もそこにあったかたと拝察します。
 さて、釈尊は先述のように、法(道理)に基づく生き方を薦められました。
 初期経典には、ある村の村長とのエピソードが残されています。

~村長との対話~

村長「世尊よ、バラモン達は沐浴して身を清め、火を礼拝するという儀式を行い、死人の名を呼べばたちまちに天上界に再生させるそうです。あなたにもできますか?」

釈尊「それについてこちらから尋ねよう。例えば大きな岩を湖に沈めて、これを大勢の人々が集まり、『岩よ浮かべ浮かべ』といって祈願したとしよう。するとその岩は、その祈願によって浮上してくるであろうか?」

村長「そんなことはありえません」

釈尊「それからね村長。例えば油を入れたビンを湖に落としたとしよう。そしてそのビンが湖底で割れて、水面に油が浮かび上がってくるとしよう。そこで人々が『油よ沈め沈め』と祈願したとしよう。するとその祈願によって油が沈むであろうか」

村長「そんな道理はありません。油は浮くに決まっています」

釈尊「呪文を唱え、合掌して、祈願をいくらしても、それがなんの効験を現すというのだろうか」

 こう言って、まじないや呪術、祈願がいかに不合理であり迷信的信仰であるかを、譬えをもって批判されています。こうした釈尊の姿勢を受けて、基本的に仏教では、問題の本当の解決に導くものではないとして、迷信やおまじない、占い、超能力、呪術的医療、呪術的祭祀を否定的に捉えてきました。これは、呪術やまじない行為を通して現世利益を得ようと、季節ごとに行われる日本の年中行事などにも見られる様々な民間信仰(庶民信仰)とも一線を画するものであります。
 以上のように、本学が建学の精神としている仏教は、普遍の道理である「法」を中心とするものであり、理知的で、自覚を重視した教えといえます。