法話 86号 4月・5月 発行
のぞみはありませんが ひかりはあります
西川 正晃
これは、文化庁長官を務められた心理学者の河合隼雄さんの言葉で、将棋の谷川浩司さんと対談を収録した「無為の力」に収録されています。新幹線の駅員さんに、「のぞみはもうありません」といわれて言葉を失った河合さんは、その後に「ひかりはあります」と言われたそうです。駅員さんも、「(新幹線の)のぞみは終わり、ひかりならまだあります」と事実を述べただけなのです。こうしたなにげない言葉に、河合さんはとても感動されたそうです。それには理由があるのです。河合さんは自分が担当する患者さんから、自殺をほのめかす電話を受けていたそうです。学会の仕事で出張していた河合さんは、夜遅い時間の新幹線の窓口に足を運び、そこで耳にした駅員さんの「のぞみはなくても、ひかりがある」という言葉に希望の灯火(ともしび)を見出されたのです。さらに河合さんは、「思わず、『望みはないけど、光はある!』と大声で繰り返してしまったんですよ。そうしたら駅員さんが『あっ、"こだま"が帰ってきた』」と続けておられます。
「のぞみ」のない世界とは、 絶望の淵に立たされることだけが「のぞみ」がないことではありません。日々の葛藤や悩み、揺れなどからくる心のざわめき、いわゆる欲の世界も「のぞみ」のない世界なのです。「欲望」という言葉から「望」をとると、「欲」しか残りません。「極重悪人」といわれる私たちの姿は、まさに「のぞみ」のない世界(「よく」ばかりの世界)だといえるのかもしれません。
また、「ひかり」のある世界は、「のぞみ」がない世界の中にいても、自分の欲がみえてきて、それと向き合いながら、克服しようと自分らしく歩いて行ける世界だと味わわせていただけるのではないでしょうか。自分らしく歩けないような暗闇の世界は足下がとても危険な状態です。徳島県に大歩危・小歩危【おおぼけ・こぼけ】という地がありますが、「ぼけ」とは、思考が鈍くなったり、頭がボーっとしたりすることではなく、足元がおぼつかない状態をいうのかもしれません。しかし、光に照らされることによって、「のぞみ」がない欲ばかりの世界であっても、見ることができ、確かな歩みを踏みしめることができるのです。
極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)
煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)
正信偈には「煩悩によってわたしたちは仏さまの慈悲のひかりを見ることはできないけれども、常にひかりは私たちを照らしている」と親鸞聖人が詠まれています。「望」を失って「欲」だけの私でも、生きることが苦しい私でも、仏さまのさまざまな智慧や慈悲のはたらきは「ひかり」と表現されます。それに対して、わたしたちはみな無明(むみょう)とよばれる大きな煩悩(ぼんのう)の闇を抱えています。普段はなかなか仏さまの光の存在に気づきませんが、煩悩の闇を照らす仏さまの智慧や慈悲の光は存在するのです。その明かりに照らされて、確かな人生の歩みを一歩一歩踏みしめていきたいと願っています。