岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

法話 87号 6月・7月 発行

~雑草という草はない(害虫という虫はいない)~

河智 義邦

1.NHK朝ドラ『らんまん』
 4月から放映されているNHKの朝ドラ『らんまん』は、日本の植物学者・牧野富太郎の半生をモデルとした内容になっていて、俳優の神木隆之介さんが主演されています。牧野先生は、「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威であります。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っています。

2.語録から
 その牧野先生の語録には大変有名な言葉が残されています。

あるインタビューを受けたときに、きみ、世の中に〝雑草〟という草は無い。どんな草にだって、ちゃんと名前がついている。わたしは雑木林という言葉がキライだ。松、杉、楢、楓、櫟----みんなそれぞれ固有名詞が付いている。それを世の多くのひとびとが〝雑草〟だの〝雑木林〟だのと無神経な呼び方をする。もしきみが、〝雑兵〟と呼ばれたら、いい気がするか。人間にはそれぞれ固有の姓名がちゃんとあるはず。ひとを呼ぶばあいには、正しくフルネームできちんと呼んであげるのが礼儀というものじゃないかね(木村久邇典『周五郎に生き方を学ぶ』実業之日本社より)
と述べられたそうです。「世の中に雑草という草はない」との言葉です。また別の対談ででは、
  どんな植物にも固有の名前がある。それを無視して「雑草」「雑木林」などと人間にとって要不要だけで分類するのは、おこがましいという主張でした。(山本周五郎との対談)
とも仰っています。
 私はこうした言葉は、仏教の言う「分別知」と「無分別智」、つまり、さとりの智慧によるいのちに対する見方と同じで、とても印象に残りました。

3.分別知と無分別智
 人は物事を理解するために、物事を分けて分析をして、そしてその対象となったものの特色を把握します。いわゆる「科学」です。それはとても大切なことなので、それ自体が批判されるべき事では全くありません。牧野先生も科学者です。仏教では、そうやって物事を理解するために考えること(知恵)を、「分別知」と呼んでいます。私たちの日常生活で働かせている知恵のことでもあります。
 しかしながら、その知恵は、常に人間(自分)の都合で、役に立つもの・立たないものの仕分け作業をしていて、そうした営みの中で、「雑草」や「害虫」というように、同じ地球上に生まれて生きている「いのち」に対して、失礼な呼び方をしているのです。他ならぬ私自身もそうです。たしかに生きとし生けるものはすべて縁をもらってそのような「いのち」として存在しているのでひとつひとつ尊く、かけがえない存在であります。しかしながら、私たちは生活上、どうしてもすべてのいのちと仲良くすることはできません。
 いま述べましたように、宇宙・世界は、本来、すべて関係しあっていて、しかも絶え間なく変化し続けていますが、そうしたいのちのありようを「縁起」といいます。仏の智慧とはそういう世界を、自と他を区別せずありのままに見る智慧であり、それを「無分別智」と呼んでいます。またそこに自身の都合による、どのいのちが要・不要という仕分け作業はありません。
 こうした見方(無分別智)はとても大切なものですが、現実的にはその心に生きることはなかなかに難しいことであります。人間(自分)は、時に分別知的視点でいのちの間に差を作り、若いほうが老より、健康の人ほうが病人より価値があるといった見方をして、他者と比較し、過去の自分と比較して、人のいのちにランクを付け、いまの自分のいのちを受容できなくなっていることがあるのではないでしょうか。牧野先生が教えてくれているように、人間中心主義に立って、いのちのありようを見失いがちになっていないでしょうか。
 親鸞聖人は、そうしたいのちの仕分け作業から離れること出来ない私たちのために阿弥陀如来が常に念仏することをすすめ、南無阿弥陀仏(はかりしれないいのちの世界に立ち返れ)と喚びかけて下さっていると説かれました。

4.おわりに
 最後にもう一つ牧野先生の言葉を紹介して終わりたいと思います。
  植物は人間がいなくても少しも構わずに生活するが、人間は植物が無くては生活の出来ぬ事である。そうすると、植物と人間とを比べると人間の方が植物より弱虫であるといえよう。つま  り人間は植物に向こうてオジギをせねばならぬ立場にある。
                         (『牧野富太郎 植物博士の人生図鑑』)
 この言葉を聞いて、私は自坊の境内の除草作業で暑い中ご苦労をいただき作業していた門徒のおばあさんが、「なまんだぶ(南無阿弥陀仏)、なまんだぶ・・・」とお念仏申されていたことを思い出しました。これを懺悔の念仏と言います。南無阿弥陀仏