法話 89号 10月・11月 発行
南無阿弥陀仏と申して、疑いなく往生すること
蜷川祥美
法然聖人(1133~1212)の『一枚起請文』に、「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思いとりて申す他には別の子細候わず」とあります。阿弥陀仏の極楽浄土へ往生を遂げるためには、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」とおとなえするのです。一点の疑いもなく「必ず浄土に往生するのだ」と思い定めておとなえするほかには、別になにもありませんという意味です。
お念仏には、観想念仏(精神を集中して阿弥陀仏やその浄土を観察して自らの心を清浄にして往生を果たす実践)と、称名念仏(精神を集中できない者でも、「南無阿弥陀仏」と称えることによって往生を果たす実践)があります。中国や日本でも二つの流れがありました。称名念仏によって浄土往生が果たせるのだとの主張は、中国の善導大師(613~681)がお示しになっていましたが、天台宗など、修行をして自らの能力を高めることによって浄土往生を目指す方々は、修行を完成できない愚かなものでもできる称名念仏は劣った実践であり、修行としての観想念仏こそ優れた実践であるとご主張なさっていました。
しかしながら、阿弥陀仏は、あらゆる生きとし生けるものを救うために、本願をお誓いになられました。その本願に誓われた実践こそ、修行のできる者も、できない者も、誰もが実践できる称名念仏であり、この教えこそ、すべての者が浄土に往生して仏と成ることのできる真実の教えだという主張です。
法然聖人は、天台宗の出家修行者でいらした頃、「智慧第一の法然房」と称されるほど、学徳に優れ、永年のご修行により、他者と比べると、心もきれいな方であったと思われます。しかし、そのような方でも、自らの本性を省みる時、煩悩をすべて消し去ることができず、きれいな心が続かないため、浄土往生して仏と成ることなどかなわぬことだと悩まれていらしたのです。
自らの浄土往生への道を求めて、何度も経典や論疏を繙くうち、善導大師の『観経疏』に、「一心に称名念仏すれば、浄土往生が果たせるのは、それが阿弥陀仏の本願に誓われた実践だからである」との文が記されていることにお気づきになり、これこそ、私のような愚かな者が浄土往生を果たすことができる道であり、あらゆるものが仏と成ることができる確かな道であるとの確信を得られたのです。永年の修行によって実現できなかった道が、称名念仏によって確かなものとなったのです。
仏教徒は、仏と成ることが目標です。「南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生する」という思いには、南無阿弥陀仏、すなわち称名念仏によって、浄土往生を果たし、仏と成るための確かな道を歩みたいという思いにつながることであろうと思います。
親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願のいわれを信じた者が、報恩謝徳の思いで称えるのが「南無阿弥陀仏」であるとお示しくださいました。その教えは、善導大師や法然聖人から受け継がれたものです。
『歎異抄』第二条に、「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」とあります。この親鸞においては、「ただ念仏して、阿弥陀仏に救われ往生させていただくのである」という法然聖人のお言葉をいただき、それを信じているだけで、他に何かがあるわけではありませんという意味です。これは、法然聖人の「南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思いと」るとのお言葉をゆるぎなく信じられていらっしゃることを示しています。
また、『高僧和讃』源信讃に、「極悪深重の衆生は 他の方便さらになし ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまふ」とあります。天台宗の源信和尚(942~1017)は、「きわめて深く重い罪悪をかけているものが救われるには、他の手だては何一つない。ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えることで、浄土に生まれることができる」といわれているという意味です。これは、源信和尚の『往生要集』を引用なさったご和讃です。法然聖人と同じ意味のお言葉を、源信和尚も残されているのです。
中国の善導大師、日本の源信和尚、法然聖人がお示しくださった「南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生する」という称名念仏の教えが、親鸞聖人に受け継がれ、現代に伝えられています。紹介した4名の学匠方は、いずれも経典や論疏に精通した優れた方々でありながら、自らを修行を完成できない愚かなものであると深く自省の思いをもっていらっしゃいました。愚かな者も仏と成ることができるという称名念仏こそ、真実の教えであるという確信が、多くの先達によって示され、受け継がれてきのです。愚かさが一向に解消されないままの現代の私たちが、理想を目指す生き方を志向する際に、この教えは大きな意義をもっているように思います。