岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

岐阜新聞 真学塾 看護学部④ 西田倫子 

『保健室の先生』の礎は"岐阜"にあり 

   岐阜聖徳学園大学看護学部教授 西田倫子

 コロナ禍にあって、学校では、校長のリーダーシップのもと全教職員が感染拡大防止に向けて一丸となって取り組んでいます。その取組の中核的役割を担っているのが保健室の先生、「養護教諭」です。

 養護教諭の礎が"岐阜"にあることをみなさんはご存知でしょうか。

 明治30年頃、全国的に伝染性眼疾患(トラコーマ)が流行していました。岐阜県は県独自の「学校児童トラコーマ予防治療の通牒」の中に、「患者多数なる学校所在地の市町村に於ては、看護婦を養成又は雇用して治療を補佐せしめること」とした一文を明記しました。それを受けて、当時の羽島郡竹ノ鼻小学校は、早速看護婦を雇い入れ、66.4%の罹患率を24.1%に減少させたという記録が残っています。竹ノ鼻小学校の看護婦派遣は1年で終えましたが、その後、岐阜市高等小学校(後の京町小学校、現岐阜小学校)に、病院からの派遣職員ではなく、市費職員として看護婦が雇われました。その学校看護婦の名前は『広瀬ます』。養護教諭第一号となります。

 広瀬はトラコーマ蔓延予防のために力を尽くしますが、それだけでは終わっていませんでした。当時の子供達の生活環境は決して恵まれたものではなく、衛生状態や栄養状態が悪いが故に起こる様々な子供達の健康問題に立ち向かうことになりました。校内には医務室という今でいう保健室が設置されます。広瀬が書き残した当時の記録には、保健室の様子が書かれています。「先生眼にゴミが入りました」「お腹が痛みますから治して頂戴。」「おデキができました。」といった今と変わらない子供達の姿があります。また、そのような子供たちの声に耳を傾け親身に対応する広瀬がいます。用務員さんの力を借りて、乳母車を改造して『愛の救急車』を作り、それにけがや発熱の子供を乗せて病院や家庭に運んだことも記されています。

 子供たちの健やかな成長を願う彼女の想いが県内だけでなく全国に広がっていきます。大正12年、大阪市は一校一名の割で学校看護婦を設置しました。その後は、学校看護婦は健康生活指導から応急手当て、望ましい生活習慣形成に必要な学習に携わる立場であることが評価され、学校看護婦から養護訓導、養護教諭となり教育職員として位置づけられました。

 広瀬は、病気で52歳という生涯を終えます。彼女の功績は岐阜市上加納山墓地にある保護者によって建てられた碑が物語っています。(令和3年9月12日岐阜新聞掲載)