岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

法話 90号 12月・1月 発行

自由は不自由?

西川 正晃

NHKの朝の連続小説「スカーレット」(2019年度後期放送)に登場した世界的な芸術家・ジョージ富士川の言葉がとても印象的でした。それが、「自由は不自由だ」です。スカーレットとは、NHKのいわゆる朝ドラで、戦後まもなく、大阪から滋賀・信楽にやってきた女性が、陶芸への情熱は消えることなく、自らの窯を開き、独自の信楽焼を見出していく、当時では女性陶芸家が珍しかった時代の物語です。古代の窯跡で室町期のつぼのかけらを見つけたことをきっかけに、釉薬(ゆうやく)を使わず穴窯で焼き締める「信楽自然釉」の再現に挑み、成功させました。土の鉄分が酸化して発色する鮮やかな「緋色」や、薪の灰と土が混じってできる深緑色が特徴の作品が注目を集めました。再現させた「緋色」がこのドラマの題名となっている「スカーレット」なのです。西川貴教さんふんする芸術家がいつも口にしていた「自由は不自由だ」について、放送の中で具体的にどういうことなのかの説明はありませんでした。しかし、とても気になるフレーズで、その言葉を耳にするたび、思いを巡らしていました。

保育の世界では、「自由遊び」という言葉が使われることがあります。筆者はあまり使いませんし、あまり好きではない言葉です。筆者は、「自由遊び」と呼ぶかわりに、「自ら選んでする遊び」を使っていました。なぜ好んで使わないのか、深く考えたことはないのですが、先述のジョージ富士川の言葉をきっかけとして考えてみることにしました。一般的に「自由遊び」というと、子どもが好き勝手にすることだと考えられています。好きなときに遊び、好きな人と遊び、好きな場所で遊び...。こうした保育は、小学校以降の生活が決められた生活では対応が難しく、勝手気ままな子どもに育つのではないかという批判を耳にすることがあります。しかし、勝手気ままな子どもを育てることが、保育の目的であるはずがありません。子どもたちは、自ら選んだ遊びや生活を通して、自分で選択し、判断したり、考えたりしていきます。時には、周りの人とぶつかることがあっても、話し合いを通して解決しようとし、我慢したり相手に譲ったりもします。こうした営みは決して自分勝手ではなく、素敵な生き方の基盤になっていくのではないでしょうか。

「自由遊び」の自由を、ジョージ富士川の言葉と重ねると、その意味がみえてくるような気がします。「好きなときに遊び、好きな人と遊び、好きな場所で遊び...」だけであるならば、煩悩のままに生きていることになります。言い方を変えると、煩悩の中でも、代表的な煩悩である三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)にコントロールされた生き方そのものなのです。しかし、「自ら選んだ遊びや生活を通して、自分で選択し、判断したり、考えたりしていきます。時には、周りの人とぶつかることがあっても、話し合いを通して解決しようとし、我慢したり相手に譲ったりもします」は、信心、すなわち仏さまのはたらきに(み教え)にコントロールされた生き方につながっていくのではないでしょうか。煩悩にコントロールされた行動は、煩悩に支配された不自由な姿であると感じます。反対に、阿弥陀様のみ教えにコントロールされた行動は、周りの方々への想像力を発揮し、自分の力を存分に発揮できる自由な姿なのではないでしょうか。

二十五代ご門主の大谷光淳様が、「念仏者の生き方」の大切な心を、簡潔に四箇条のことにまとめてくださった「私たちのちかい」があります。

私たちのちかい

一、自分の殻(から)に閉じこもることなく 穏(おだ)やかな顔と優しい言葉を大切にします 微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように

一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず しなやかな心と振る舞いを心がけます 心安らかな仏さまのように

一、自分だけを大事にすることなく 人と喜びや悲しみを分かち合います 慈悲(じひ)に満ちみちた仏さまのように

一、生かされていることに気づき 日々に精一杯(せいいっぱい)つとめます 人びとの救いに尽くす仏さまのように

その四つ目にあるように、「気づき」「つとめる」ことが大切であるとお示しくださっています。「気づき」「つとめる」ことは、煩悩に支配された不自由な生き方から解放される、自由な生き方だと気づかされるのです。