岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

岐阜新聞 真学塾㉔ 教育学部 国語専修 藤田万喜子

季語を知ろう

     たのしもう


岐阜聖徳学園大学 教育学部 国語専修 藤田万喜子


 季語には読者が共有できる映像・感覚・風情が集約されている。これを季語の本意という。俳人の山口誓子は「(季語は)無限に大きな季節、絶対なエネルギーを放射する言葉です。十七音という短い詩型の中で、小さな言葉でありながら最大の効果をあげるのです」と季語の力を説いている。個人的感動を普遍化して表現するために配する季語を知り、言葉と言葉の相乗効果を味わいたい。そのためにあるのが『歳時記』である。俳句を作るときに、鑑賞するときに、ぜひ活用して、言語感覚をみがいてほしいと思う。ふだん見過ごしている風物や使っている言葉が実は季語だったということがある。

 さて、ここで問題。
   風薫る 風冴(さ)ゆる 風涼し 風光る
   新涼 夜の秋 暮の秋

 これらの季語を季節の順に並べ替えてみよう。
「風冴(さ)ゆる」の冬から、風に明暗を感じ取る「風光る」の春へ、「風薫る」の夏、青葉のころから暑さの中で感じる「風涼し」の夏、夜には秋を感じる「夜の秋」の晩夏、めっきり涼しくなりましたねと挨あい拶さつを交わす「新涼」の秋、そして、秋も終わりに近い「暮の秋」の晩秋と移り変わっていく。「夜の秋」は、季節は夏でありながら夜に秋めいたと感じる微妙な変化を感覚的に捉えている。これは日本人ならではの独特の季節への思いであろう。「新涼」は、残暑の後、待ちわびた涼しさが訪れることで、言わば、期待感のこもった涼気で、夏の涼しさとは異なる。秋になったなあと気持ちの上でほっとする、そんな体内感覚を表す季語である。
 私たち日本人は、初秋は暑さを乗りこえほっと息をつく安堵の時季、仲秋は爽やかさや実りを満喫する時季、晩秋は生命力の衰えへの寂寥感(せきりょうかん)と寒さへの構えの時季、という共通の感覚を持っている。これは、先人達によって守り受け継がれてきた物の見方、感じ方、味わい方が、一言で言えば伝統が支えになっているからである。
 季語という言葉は明治になってから使われるようになった。それまでは「季の詞(きのことば)」と言われ、雪・月・花などの和歌や連歌の題となっていた雅やかな美しい「竪題(たてだい)」と新米・餅つきなどの俳諧になってから生まれた庶民的な「横題(よこだい)」があった。「竪題」と「横題」が組み合わさって俳句の季語の世界が豊かになった。俳句を詠むときには季語の本意を踏まえ心を砕いて作りたいし、俳句を読むときには季語の本意を踏まえ言葉をほぐして鑑賞したい。